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インターネットの普及で、海外情報が簡単に手に入るようになったのはいいが、誤った認識がそのまま広がっていったり、広がっていくうちに微妙に歪められたり、誇張されたりと、情報の伝言ゲーム化は日常茶飯事となっている。特に文化や言語が違うと、一旦誤った情報を訂正するのは至難の業だ。
そういった意味も含めて、今回は日本の江戸時代に関しての海外記事を見ていくことにしよう。
日本の江戸時代はサムライがいたり、鎖国政策により独自の文化が開かれていたりと、我々日本人はもちろん、海外人にとっても興味のつきない時代である。
10. 入出国が違法(鎖国)
1633年、三代将軍徳川家光は、以降200年にわたって続く鎖国の基礎となる政策を打ち出す。この第一次鎖国令によって、奉書船以外の渡航が禁止された。
日本を離れた日本人には死刑が科された。また、これを密かに計画する者や海外から帰国した者も死刑の対象となった。
一見、過酷に思える政策の背景にあったのは、キリスト教宣教師やヨーロッパ貿易商の影響力が国内を不安定するという幕府の懸念だ。1639年には第五次鎖国政策によってポルトガル船の入港も禁止された。
日本に上陸しようとするポルトガル船は破壊され、乗員も処刑の対象となった。ただし、これはやむを得ない場合の処置であり、ポルトガル船への攻撃は実際には滅多になかった。
意外なことに、こうした鎖国令にもかかわらず、江戸時代には海外貿易が盛んに行われていた。外国人は入国が禁止されていたが、オランダ、朝鮮王朝、明朝や清朝とは通商関係があったからだ。
特にオランダはこの貿易から利益を上げており、ペリーによって開国が迫られるまでは、日本に上陸できた唯一の西洋人であった。
9. 男性の平均身長は155cm
芸術、文化、商業が隆盛を極めた江戸時代であったが、庶民にとっては大変な時代でもあった。生まれに応じた社会的な身分制度が存在したからだ。
頂点に立つのは武士であり、以下は農民、職人、商人と続く(士農工商)。そして人口の大半を占める農民は唯一年貢を課される身分であった。
時代とともに多少の改善が見られたとは言え、一般に農民の暮らしは貧しかった。貧しさゆえに子供の間引きが行われることもあった。貧困者は都市部でも似たようなものである。
国立科学博物館の調査によれば、江戸時代において日本人成人の平均身長は男性155cm、女性145cmだったという。当時の人骨10,000点の調査からは、大勢が栄養不足だったことが明らかとなっている。また梅毒の痕跡も発見されている。
また女性は化粧に起因する鉛中毒が多かったようだ。そうした遺体の多くは若者であり、その年代の死亡率が高かったことを示唆している。
8. 人糞は大切な商品
江戸時代、畜産業がそれほど盛んではなかったため、肥料となる動物の糞が不足していた。そのため農民は人間の大便を使用しており、夜な夜な農民自身や汲み取り業者が回収していた。
国中の道には農家や地主によってトイレが設えられていた。大便ほどではないにしても、尿も回収されたという。
し尿の回収販売は大切な産業であり、これを盗めば投獄されることもあった。汲み取り産業は組織的に行われ、固定された相場が存在し、回収権をめぐって争いが起きた。
1772年に起きた事件では、大阪ワナタベ村の汲み取り業者に尿の独占的回収権が与えられたことが発端で、他の業者と争いが起き、トイレの破壊活動まで行われたという。
そしてこの汲み取り業は、江戸時代の日本を当時世界で最も清潔な国にする。ヨーロッパの各都市が、窓から投棄される糞尿で不潔極まりなかったのと対照的である。おかげで江戸時代に不衛生を原因とする疫病が蔓延することはなかった。
7. 春画の大流行
江戸時代には春画という木版画が大流行していた。幕府はこれを一応取り締まっていたが、あらゆる身分の男女が楽しんでおり、実効性はほとんどなかったようだ。
春画は本に綴じられることもあり、一般的な本よりもよく売れた。作成は匿名であったが、葛飾北斎、喜多川歌麿など、当代随一の浮世絵師たちの誰もが春画を手がけている。その題材はソフトなものから、みだらなもの、同性愛、エキゾチックな外国人との逢瀬、触手モノの先駆けのような作品まで多種多様である。
外国人との接触の機会も増えだした1859年、横浜を訪れたフランシス・ホールというアメリカ人は、訪問先の主人が自慢げに見せてくれた春画のコレクションにショックを受けたという。彼の日記には、「おびただしい本が、恥知らずにも展示されている」と書かれている。
春画は日本が近代化と西洋化を進める過程で廃れていったが、最近になって再評価されるようになってきた。
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6. 俳句コンテストが一種の賭け事として人気
五、七、五でなる世界的に有名な定型詩である俳句の源流は、俳諧という集団文芸にある。俳句とは違い、俳諧は本格的な芸術というよりはずっと手軽な余興であった。
俳諧の最初の句を発句というが、俳句はこれを単独での鑑賞に耐える自立性の高い作品にしたものだ。松尾芭蕉のような俳人は俳句を芸術の域にまで高めた一方、多くの人々は室内ゲームとして熱中していた。
俳諧が貴族階級や職業詩人以外にも広まり、やがて農民や町人にも嗜まれるようになると、前句付けという一種の賭け事興行が行われるようになる。これが大人気で、作品を募集すると、田舎の村々から数百点、ときには数千点もの作品が応募された。17世紀後半になされた京都でのある公募には1万点以上の作品が寄せられたという。
俳人や上流階級の人間以外にも、様々な者が前句付けの公募に送る作品作りに励んでいたようで、ある俳人の日記には、女性や子供、果ては山賊まで俳諧を嗜むようになったと非難する口調で綴られている。
こうした風潮には松尾芭蕉も感心していなかったようで、参加者を詩の世界を勘違いした者と批判している。
5. 離婚は日常茶飯事
日本の他の時代とは異なり、江戸時代の離婚率は高かった。地域によってはなんと4割が離婚していたというのだ。離婚のすべてが届けられていたわけではないことを考えると、実際にはもっと高かった可能性もある。
離婚を言い渡せるのは夫であったが、妻の両親にその力があることもあった。
儒教的な伝統では、夫が妻に離婚を言い渡していいのは、舅に従わない、無子、いん乱、嫉妬、悪疾、多言、窃盗のいずれかの事由がある場合であり、これを七去という。しかし多くの場合、夫は特に落ち度もないのに妻と別れていたようだ。
離婚を望む夫は、妻に三行半という離縁状を突きつければいい。夫が妻の財産や持参金を返還する限りは、特に支障なく進んだようだ。
19世後半まで離婚率は高いままだった。ところが、日本が近代化と西洋化を突き進むにつれて、離婚率は低下する。この2つは一般的に離婚率を上げる要素であるのに不思議なことだ。
4. 隠れキリシタンの存在
日本のキリスト教徒は人口の1%未満であり、中国や韓国のような他の東アジア諸国と比べるとかなり少ない。しかし、16世紀中頃に初めて宣教師がやってきたときは、布教についてはかなり楽観視されていた。
16世紀末期には、農民や大名らが改宗し、30万人ものキリスト教徒がいたという。しかし信徒が増加すると、幕府はこれを問題視しはじめる。彼らは迫害され、改宗を迫られ、処刑や磔に遭うこともあった。
これによって不満を募らせた農民のキリスト教徒が島原の乱を起こし、キリスト教は完全に禁止されてしまう。
しかし当時いた大勢のキリスト教徒は改宗することなく、地下に潜り、密かに信仰を持ち続けることを選んだ。それから200年、彼らは人里離れた場所や島などに住み着き、洗礼を受け、クリスマスを祝い、意味など知る由もないラテン語の祈りを捧げて生きた。
こうした隠れキリシタンは江戸時代末期には3万人ほど生き残っており、再び訪れた西洋の宣教師たちを驚かせたという。
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3. 合法だが過酷な売春
現在の日本において、売春は違法とされているが、1956年まで長きにわたって合法とされていた時代があった。江戸時代初期から大都市では、幕府によって遊女が遊郭に集められていたのだ。
秩序と風紀を守るために、遊郭には数多くの掟があった。各遊郭は高い壁に囲まれ、堀の前にあるただ1つの門からしか入ることができない。そこを訪れる客にも従うべき行動や服装に関する掟があった。また一般女性がここに足を踏み入れることは禁じられ、反対に遊女がそこから抜けることも非常に困難であった。
現代的な視点からは、江戸時代の売春はむしろ性的な奴隷であるといえよう。貧しい農民は借金の返済あるいは新たな借り入れのために娘を売っていた。遊郭側は女性や家族に厳しい契約とかわし、実質的に遊女が抜けられないようにしていた。
また地位の低い遊女の労働条件も過酷であった。適切な医療機関など利用できるはずもなく、性病が蔓延した。遊女たちは自殺や堕胎による合併症によって若死にするのが常であった。
2. 心中物が自殺を促す
遊郭のお得意様は商人や武士だった。当時の身分制度において最下層とされていた商人であるが、実際には非常に豊かであり、その資金力で大きな影響力を発揮していた。
そのような中には時折、遊女に惚れ込み、身受けを望む者もいた。しかし高額な身代金を支払える者は少なく、そうした客をつなぎとめるための手練手管として、遊女が体の一部を切り落とすこともあった。髪を切ったり、爪をはいだり、さらには指まで切り落としたりして、それを最大限の誠意として客に与えたのである。
しかし体の切断は儒教においては禁忌である。そこで遊女はまだ客を取らない妹分の振袖新造の爪を切ったり、死体から指を手に入れて、自分のものと見せかけるようになった。
こうした愛の形はやがて心中へと発展する。おそらくは18世紀の天災や貧困によって誇張されていると思われるが、大勢の愛に狂った男が遊女と心中したという。
これは一般大衆の関心を引きつけ、やがて心中を題材とした舞台が公演される。特に有名なのは近松門左衛門で、『曽根崎心中』以降、多くの連作が作られた。
やがて心中は社会問題となり、幕府は心中物はおろか、心中で亡くなった男女の葬式まで禁止するようになる。また生き残った者は刑罰が科され、相手を殺害していた場合は殺人罪が問われた。
1. 非情なる法制度
盗人の手を切り落としたり、殺人者の首をはねたりするのは、同時代においては標準的なことかもしれないが、江戸幕府の犯罪に対する態度は実に厳格だ。
例えば、盗難被害を報告しないことは、盗難を犯すのと同様に違法だった。盗人への流刑や死罪があったが、後の時代には額に入墨を入られるようにもなった。
また裸にされ、3日間公衆の面前で座り続ける刑罰もあった。死罪は最も重大な犯罪にのみ適用されたが、処刑後に磔や晒し首になることもあった。なお切腹が許されたのは武士だけである。
さらに当時の社会制度を維持するために、農民は移動の自由が大きく制限されていた。彼らが別の村へ移動できたのは、送り状という証書がある場合のみである。また彼らは着るものも決められ、苗字を名乗ることも許されなかった。武士を敬わなければならず、不敬のかどでいきなり切り捨てられることもあった。
面白いのが田舎で行われた入れ札という制度で、放火や窃盗の犯人が見つからないとき、投票によって真犯人を決めるというものだ。このとき犯人とされた人物を弁護した者も同罪となり投獄された。
落書起請という匿名の告発状を神社に落として、犯人を決める風習もあった。役人の汚職の告発などに一役買ったようだ。
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10 Bizarre And Fascinating Facts About Life In Old Japan
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