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ピクト人は中世ヨーロッパにおける最も謎めいた種族である。
ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族であるが、ローマ侵攻とバイキング襲来の間、ハドリアヌスの長城北部の霧に包まれた土地を支配した彼らについて分かっていることはほとんどない。
何しろ当時の人々にとってもミステリアスな種族だったのだ。彼らは未知の言語を話し、凝った意匠の刺青を施し、海を支配し、女系継承を行なったとされている。
10. 化粧をしていた?
ピクト人は文字を残さなかった。彼らについて知られていることは、すべて敵が記したことに基づく。297年、ローマの作家エウメニウスがハドリアヌスの長城北部に住む人々を化粧をした人々の意である”pictus”と記した。
これが彼らについて最初の記録となる。アイルランドにおける最初の記述では、ピクト人のことを意匠の人々の意味である”Cruithni”と言及している。この両者の類似性は、”ピクト"が北部スコットランド人が自らを指して用いた呼び名である可能性を示唆している。
ピクト人は部族連合であり、共通の敵との戦いを通じてアイデンティティを確立した。ローマは何度も征服を試みたが失敗している。
また後になるとバイキングに抵抗するために結束を深めた。900年までには歴史の記録から姿を消しているが、おそらく南部のスコットランド文化と融合したのだと思われる。
一部の説によると、ピクト人は彼らの言葉で先祖を意味する”Pecht”と自らを呼んでいたという。またピクトに関連する”Pett”や”Pitt"という地名が今でも残っている。
9. ピクト語
ベーダのイングランド教会史によれば、8世紀イギリスには、ケルト語、英語、ラテン語、ゲール語、ピクト語の5言語が存在したという。
またアドムナンはピクト語の翻訳者が必要であったことを明らかにしている。彼らは文字を残していないため、その存在は地名、人名、岩の彫刻からしか知ることができない。
一説によると、ピクト語はケルト語よりもバスク語に近い青銅器時代の言葉だったという。またPケルト語というケルト語(現在でもウェールズに残る)と同系統の言語を話したという説もある。
この説を支持する専門家は、スコットランド北部に残るピクト語の地名は明らかにインド・ヨーロッパ語族で、他のケルト語と関連があることを指摘する。他にもアイルランド人によって持ち込まれたQケルト語を話したという見解もある。
8. 母系継承
通説ではピクトは女系継承であったされる。ベーダは教会史の中で、スキタイから海を渡りブリテンに到着したピクト人は妻帯しておらず、アイルランド系スコットランド人の妻を娶らせてもらえるよう懇願したと記している。そこでスコットランド人はある条件を突きつけた。父方ではなく、母方から王を選ぶという条件だ。
14世紀に書かれたピクト年代記(Pictish Chronicle)は、彼らの王と在位の期間を記しているが、7世紀後半以前に王の息子が王位を継承した記録はない。
しかし王は父方の親族の名で同定されている。このためベーダの記述は、ピクト人の土地でアイルランド人の王権を正当化する策略なのではないかと疑う説もある。一方、女系継承が先インド・ヨーロッパ系の影響であるとする見解もある。
7. ピクト人の犠牲者の顔
最近、スコットランド・ダンディー大学の研究者が1,400年前に殺されたピクト人の顔の再現を試みた。
”ローズマーキーマン”と呼ばれる骸骨は、ロスシャーのブラックアイルの洞窟で発見された。放射性炭素年代測定法からは430~630年のものであることが判明している。亡骸は足を組み、大きな石を乗せられていた。また頭部に少なくとも5ヶ所の傷を受けていた。
ローズマーキーマンの歯と顎は砕かれ、頭蓋骨には穴や潰れた跡があった。非常に惨たらし状態であったが、埋葬は丁寧に行われた形跡がある。真相が明らかになることはないだろうが、埋葬状態はピクト文化を理解する貴重な手がかりである。
6. リニーマン
1978年、スコットランドの農家がリニー付近で斧を持つ男が描かれた1.8メートルの石版を発見した。700年頃のものと推定される石版の男は、尖った鼻、ヒゲ、頭飾り、チュニックを特徴とする。また付近からはCraw Stane(カラス石の意)という鮭と正体不明の動物が刻まれた石も発見されている。
リニーで2011~2012年に行われた発掘調査からは、地中海の陶器、フランス製のグラス、アングロサクソンの金属細工が出土。交易の距離が長いことから、王室ゆかりの地ではないかと推測される。
またリニーでは優れた治金技術の証拠も見つかっている。なおリニーマンはケルトの森林の神エススを描いたものという見解が一般的だ。
5. 絵入りの小石
ピクト人の絵入りの小石を巡っては19世紀から激論が交わされてきた。伝承では小石は魔除けだと伝えられている。
1971年まで小石が人間や動物の病気を治療するために使用されていた。他にもパチンコの弾丸で、マークは所有者を示すという説もある。
2014年、ジェニー・マリーは石工の協力を得て小石の再現を試みた。ここから絵は焼いたピートから得た黒い物質で描かれていることが判明。スコットランドではピートは家庭や精錬の燃料として一般的に使われていたものだ。これを一晩放置することで、お湯でも落ちないほどしっかりとした色素を石に残すことができる。
似たような絵入りの石はフランス中部のピレネー山脈やイタリア南部でも発見されている。こちらは1万から1万2,000年前に遡ることができる。
4. 海の支配
2015年、ピクト人の海軍力を示す鉄器時代の要塞が発見された。要塞が築かれたDunnicaerの海岸の岩棚は6メートルもあり、登るにはロープを使わねばならない。5世紀から6世紀のもので、スコットランドの東海岸を監視する一連の要塞の一部であったようだ。
建設に使われた石材は他所から運ばれてきたものだ。また石には魚やリング、それを貫く壊れたヤリの意匠も施されている。
ピクト人は海で略奪を行なっていたことが知られており、こうした要塞は彼らの海軍力を示している。また城壁、くい穴、炭が残された火床の名残も発見されており、要塞には石材以外に木材も使用されていたのではないかと考えられる。
3. スコットランド王ケネス1世
9世紀中頃、ピクトの王権はバイキングによって壊滅状態にあった。この権力の空白に名乗りをあげたのがケネス・マカルピンだ。ダルリアダ王の子として810年頃に誕生し、ピクトとゲールの王国を統一。スコットランド最初の王となった。
伝承によると、ケネス1世はドルスト10世(Drust X)を中心とする7つのピクト人王家と対立していた。彼は底に杭を並べた落とし穴を仕掛け、そこに酒に酔っ払った敵対者を落として殺害したという。しかしこれは疑わしい。
ケネス1世の統治は848年前に成立していたのだ。それでもバイキングの脅威はまだあった。ゲール人のダルリアダ王国は140隻の船で襲来したバイキングによって滅亡。858年にケネス1世が死ぬと、ピクト人もまた消えた。
2. ピクトの獣
2011年、ブラックアイルでピクト人が残したと思われる獣の彫刻が発見された。5~7世紀のものだが、風化の跡がないため、もともとは屋内に設置されていたか、埋められていたのだと推測されている。
動物の他に三日月、くし、鏡も刻まれている。さらに付近からは魚の鱗かガチョウの羽らしきものが彫られた彫刻も発見された。
1. 現代に生きるピクト人
9世紀頃、ピクト人が歴史の表舞台から姿を消したとき、彼らがどうなったのかは長い間謎だった。2013年のDNA解析からはピクト人が今も健在であることが判明している。
スコットランド人1,000人を対象にDNAを調査したところ、10パーセントから”化粧をした人々”から直接受け継がれたY染色体マーカー”R1b-S530”が検出されたのだ。
またアイルランド北部でもピクト人の末裔が見つかっている。アイルランド北部では3パーセントがR1b-S530マーカーを持っていた。
一方、アイルランド南部ではこれを持つ人は1パーセントのみであった。政治的には、839年のバイキング襲来とケネス1世によるゲール人とピクト人の統一によって彼らは姿を消した。しかし遺伝子から見ればピクト人は今もなお生きている。
via:10 Fascinating Mysteries Of The Picts
☆なぜ謎は10とか切りのいい数字になるのだろか?
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ピクト人は中世ヨーロッパにおける最も謎めいた種族である。
ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族であるが、ローマ侵攻とバイキング襲来の間、ハドリアヌスの長城北部の霧に包まれた土地を支配した彼らについて分かっていることはほとんどない。
何しろ当時の人々にとってもミステリアスな種族だったのだ。彼らは未知の言語を話し、凝った意匠の刺青を施し、海を支配し、女系継承を行なったとされている。
10. 化粧をしていた?
ピクト人は文字を残さなかった。彼らについて知られていることは、すべて敵が記したことに基づく。297年、ローマの作家エウメニウスがハドリアヌスの長城北部に住む人々を化粧をした人々の意である”pictus”と記した。
これが彼らについて最初の記録となる。アイルランドにおける最初の記述では、ピクト人のことを意匠の人々の意味である”Cruithni”と言及している。この両者の類似性は、”ピクト"が北部スコットランド人が自らを指して用いた呼び名である可能性を示唆している。
ピクト人は部族連合であり、共通の敵との戦いを通じてアイデンティティを確立した。ローマは何度も征服を試みたが失敗している。
また後になるとバイキングに抵抗するために結束を深めた。900年までには歴史の記録から姿を消しているが、おそらく南部のスコットランド文化と融合したのだと思われる。
一部の説によると、ピクト人は彼らの言葉で先祖を意味する”Pecht”と自らを呼んでいたという。またピクトに関連する”Pett”や”Pitt"という地名が今でも残っている。
9. ピクト語
ベーダのイングランド教会史によれば、8世紀イギリスには、ケルト語、英語、ラテン語、ゲール語、ピクト語の5言語が存在したという。
またアドムナンはピクト語の翻訳者が必要であったことを明らかにしている。彼らは文字を残していないため、その存在は地名、人名、岩の彫刻からしか知ることができない。
一説によると、ピクト語はケルト語よりもバスク語に近い青銅器時代の言葉だったという。またPケルト語というケルト語(現在でもウェールズに残る)と同系統の言語を話したという説もある。
この説を支持する専門家は、スコットランド北部に残るピクト語の地名は明らかにインド・ヨーロッパ語族で、他のケルト語と関連があることを指摘する。他にもアイルランド人によって持ち込まれたQケルト語を話したという見解もある。
8. 母系継承
通説ではピクトは女系継承であったされる。ベーダは教会史の中で、スキタイから海を渡りブリテンに到着したピクト人は妻帯しておらず、アイルランド系スコットランド人の妻を娶らせてもらえるよう懇願したと記している。そこでスコットランド人はある条件を突きつけた。父方ではなく、母方から王を選ぶという条件だ。
14世紀に書かれたピクト年代記(Pictish Chronicle)は、彼らの王と在位の期間を記しているが、7世紀後半以前に王の息子が王位を継承した記録はない。
しかし王は父方の親族の名で同定されている。このためベーダの記述は、ピクト人の土地でアイルランド人の王権を正当化する策略なのではないかと疑う説もある。一方、女系継承が先インド・ヨーロッパ系の影響であるとする見解もある。
7. ピクト人の犠牲者の顔
最近、スコットランド・ダンディー大学の研究者が1,400年前に殺されたピクト人の顔の再現を試みた。
”ローズマーキーマン”と呼ばれる骸骨は、ロスシャーのブラックアイルの洞窟で発見された。放射性炭素年代測定法からは430~630年のものであることが判明している。亡骸は足を組み、大きな石を乗せられていた。また頭部に少なくとも5ヶ所の傷を受けていた。
ローズマーキーマンの歯と顎は砕かれ、頭蓋骨には穴や潰れた跡があった。非常に惨たらし状態であったが、埋葬は丁寧に行われた形跡がある。真相が明らかになることはないだろうが、埋葬状態はピクト文化を理解する貴重な手がかりである。
6. リニーマン
1978年、スコットランドの農家がリニー付近で斧を持つ男が描かれた1.8メートルの石版を発見した。700年頃のものと推定される石版の男は、尖った鼻、ヒゲ、頭飾り、チュニックを特徴とする。また付近からはCraw Stane(カラス石の意)という鮭と正体不明の動物が刻まれた石も発見されている。
リニーで2011~2012年に行われた発掘調査からは、地中海の陶器、フランス製のグラス、アングロサクソンの金属細工が出土。交易の距離が長いことから、王室ゆかりの地ではないかと推測される。
またリニーでは優れた治金技術の証拠も見つかっている。なおリニーマンはケルトの森林の神エススを描いたものという見解が一般的だ。
5. 絵入りの小石
ピクト人の絵入りの小石を巡っては19世紀から激論が交わされてきた。伝承では小石は魔除けだと伝えられている。
1971年まで小石が人間や動物の病気を治療するために使用されていた。他にもパチンコの弾丸で、マークは所有者を示すという説もある。
2014年、ジェニー・マリーは石工の協力を得て小石の再現を試みた。ここから絵は焼いたピートから得た黒い物質で描かれていることが判明。スコットランドではピートは家庭や精錬の燃料として一般的に使われていたものだ。これを一晩放置することで、お湯でも落ちないほどしっかりとした色素を石に残すことができる。
似たような絵入りの石はフランス中部のピレネー山脈やイタリア南部でも発見されている。こちらは1万から1万2,000年前に遡ることができる。
4. 海の支配
2015年、ピクト人の海軍力を示す鉄器時代の要塞が発見された。要塞が築かれたDunnicaerの海岸の岩棚は6メートルもあり、登るにはロープを使わねばならない。5世紀から6世紀のもので、スコットランドの東海岸を監視する一連の要塞の一部であったようだ。
建設に使われた石材は他所から運ばれてきたものだ。また石には魚やリング、それを貫く壊れたヤリの意匠も施されている。
ピクト人は海で略奪を行なっていたことが知られており、こうした要塞は彼らの海軍力を示している。また城壁、くい穴、炭が残された火床の名残も発見されており、要塞には石材以外に木材も使用されていたのではないかと考えられる。
3. スコットランド王ケネス1世
9世紀中頃、ピクトの王権はバイキングによって壊滅状態にあった。この権力の空白に名乗りをあげたのがケネス・マカルピンだ。ダルリアダ王の子として810年頃に誕生し、ピクトとゲールの王国を統一。スコットランド最初の王となった。
伝承によると、ケネス1世はドルスト10世(Drust X)を中心とする7つのピクト人王家と対立していた。彼は底に杭を並べた落とし穴を仕掛け、そこに酒に酔っ払った敵対者を落として殺害したという。しかしこれは疑わしい。
ケネス1世の統治は848年前に成立していたのだ。それでもバイキングの脅威はまだあった。ゲール人のダルリアダ王国は140隻の船で襲来したバイキングによって滅亡。858年にケネス1世が死ぬと、ピクト人もまた消えた。
2. ピクトの獣
2011年、ブラックアイルでピクト人が残したと思われる獣の彫刻が発見された。5~7世紀のものだが、風化の跡がないため、もともとは屋内に設置されていたか、埋められていたのだと推測されている。
動物の他に三日月、くし、鏡も刻まれている。さらに付近からは魚の鱗かガチョウの羽らしきものが彫られた彫刻も発見された。
1. 現代に生きるピクト人
9世紀頃、ピクト人が歴史の表舞台から姿を消したとき、彼らがどうなったのかは長い間謎だった。2013年のDNA解析からはピクト人が今も健在であることが判明している。
スコットランド人1,000人を対象にDNAを調査したところ、10パーセントから”化粧をした人々”から直接受け継がれたY染色体マーカー”R1b-S530”が検出されたのだ。
またアイルランド北部でもピクト人の末裔が見つかっている。アイルランド北部では3パーセントがR1b-S530マーカーを持っていた。
一方、アイルランド南部ではこれを持つ人は1パーセントのみであった。政治的には、839年のバイキング襲来とケネス1世によるゲール人とピクト人の統一によって彼らは姿を消した。しかし遺伝子から見ればピクト人は今もなお生きている。
via:10 Fascinating Mysteries Of The Picts
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