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多かれ少なかれ、人間なんらかの弱点はあるはずだ。私の場合短命な家系なので死、とくにガンに対しての恐怖は並々ならぬものがあり、なんとか克服しようと自己分析を行っている最中だ。
人は死ぬために生まれてきたわけだしぃ、人生は死ぬまでがセットだしぃ。とか達観しようとする自分がいる一方で、ちょっと具合が悪くても怖くて病院に行けない自分もいる。
というわけで人の数だけ恐怖の対象があるわけだ。だが”恐怖症”と呼ばれる病的な恐怖を持つのは一部の人間だけだ。
中には非常に堪え難い、その人の生活にまで影響するような恐怖症がある。この記事を読む際は、本当にその恐怖症で苦しんでいる人がいるということを頭に入れておこう。患者の苦しみを理解し、そして共感することが大切なのだ。
10. 起立恐怖症―歩行や立ち上がることへの恐怖
その影響を想像してみよう。ただ立ち上がって、歩こうと考えるだけで恐怖を感じるのである。一体どうやって普通の生活を送れというのだろうか? モーター付きの車椅子で常に移動するわけにもいかない。かといって人間は翼で空を飛ぶことができない。患者は生きている限り、来る日も来る日も繰り返し恐怖に襲われる。
9. 決断恐怖症―決断することへの恐怖
おわかりのように、一部の恐怖症は深層心理に根ざした結果だ。決断することが死ぬほど恐ろしかったとしたら、どうやって日常生活を送ればいいだろうか? 他人に決めてもらうよう頼むのだろうか? しかし、それもまた決断なのでは? 単純になすがままを貫き、日常的に起こる当たり前の出来事には干渉しないようにするのだろうか? だが、やはりそれもまた決断なのでは?
決断恐怖症の患者は常に洪水のような考えに身を置いているに違いない。決断について考えている限りは恐怖を感じない。彼らを恐怖させるのは決断するという行為であるからだ。つまり、あらゆるこの世との関わりがトラウマになるほどの恐怖を与えているということだ。
8. 知識恐怖症―知識への恐怖
学校も、教育も、新しいことを知ることも、全部だめだ。知識恐怖症を発症することは、認知的な成長に上限を定めるのと同義である。学習の際に襲いかかる堪え難い恐怖に直面する意思がない限りは、もはや何も学べない……ということを理解する能力すら制限することになるのだ。
7. 食物恐怖症(拒食症)―食べ物への恐怖
食べ物は生きるために必要なものだ。その食べ物に怯えなくてはならない。それが食物恐怖症だ。選択肢は二つある。一つ、一切の食べ物を拒否し、栄養不良と脱水で自らを死に追いやる。二つ、口に食べ物を運ぶたびに骨の髄が凍りつくような恐怖を味わいつつ、どうにか生きながらえる。
あなたにも大好きな食べ物はあるだろう。だが、食物恐怖症に陥った途端、そうした楽しみは一切が苦しみに変わってしまう。
6. 睡眠恐怖症―眠りへの恐怖
食物恐怖症と同じく、これもまた生きるには必須の行為に関連する。数日間何も食べなくても平気な人はいるかもしれないが、睡眠の場合は1日でも欠かせばまともに活動することは難しい。
この恐怖症による生理的、心理的疲労はいかほどのものだろうか? 起きていればいるほど、体の生理機能はダメージを受け、脳の機能も衰える。だが、眠ろうとしようものなら圧倒的な恐怖に襲われ、眠れなくなる。そんな恐怖を抱えて生きなければならない。
5. 音響恐怖症―自分の声を含む、音への恐怖
さらに奇妙な制約を加える恐怖症に移ろう。音に怯えなければいけない人はどのような暮らしを送るのか? 防音室にでも引きこもるのだろうか? 耳栓が手放せない? あるいは外科的に耳を聞こえなくしてしまうことも? どれも思い切った決断が必要かもしれないが、他にいい方法が思い浮かばない。
部屋の中を飛び回るハエの音や、遠くから聞こえてくる車や雷の音、さらには自分自身の声まで恐ろしい。恐怖のあまり手で耳を塞いでも無駄だ。体内から血液の流れが聞こえてくるのだから。
4. 時間恐怖症―時間経過や時間そのものへの恐怖
ロジカルに考えるなら、時間への恐怖は、”過去、現在、未来”あるいは”遅い、早い”といった時間に付随する概念への恐怖も内包すると考えていいだろう。なんと恐ろしいことだろう。だが、たとえ時間恐怖症の患者が言葉や時間に付随する概念には恐怖を覚えないのだとしても、時間自体やその経過には恐怖する。そして人間とは絶えず刻み続ける時を意識する存在である。
この恐怖症に取り憑かれてしまったと想像してほしい。そして古い時計が刻む針を目にしてしまったら……チクタク、チクタク、チクタク……その毎秒毎秒が魂をおののかせるような恐怖となって迫る。
3. 対抗恐怖―恐怖症ゆえに恐ろしい状況を選好する
難解な理解に苦しむ恐怖症である。ある恐怖症があったとする。そしてその人物はひどい不快感や恐怖を呼び起こすような状況や物体を追い求めるのだ。どこか歪んだマゾヒズムのようだが、これは恐怖症と戦うためにそうした行為を行うのだと考えられている。
「恐怖に立ち向かえ」という古い格言がある。対抗恐怖の患者ならやすやすと実践してみせるだろう。彼らは激しい恐怖を克服しようと自らを恐ろしい状況に置く。無論、効果はない。ゆえに常に闘争・逃走反応に身を晒さねばならない。したがって、この患者は恐怖症に起因する一般的な精神衰弱を利用して、もう一段階上の心理的問題を付け加えるのだ。
2. 恐怖症恐怖―恐怖症を発症することへの恐怖
恐怖を味わうのではないかと恐怖する。ちょっと待て。それはすでに恐怖である。ならば、恐怖症恐怖とは自己に言及した恐怖なのだろうか? 恐怖症というよりもパラドックスや頭の体操なのではないかと思わせる、なんとも複雑な恐怖である。
彼らは恐怖の発症を恐れている。しかし、彼らはすでに恐怖を発症している。つまり恐怖症恐怖とは自分自身の恐怖に永遠に恐怖を継ぎ足しているということになる。実に、実に恐ろしい。
1. 汎恐怖症―あらゆるものへの恐怖
ありとあらゆるものが恐ろしいという恐怖症である。あるソースでは、この恐怖症を「なんだかよくわからない邪悪への曖昧で、持続した恐れ」と説明している。
汎恐怖症とは日常を全く普通に送ることができる。ただし、普遍的かつ深遠な悪意ある力がどこかに存在するという絶え間ない恐怖に常に苛まれているのだ。
ここで紹介した他の恐怖症は特定の原因に言及しているのに対して、これは恐怖が遍在しているという点で圧倒的である。どこに行こうと、何をしようと、この恐怖症に囚われた者は日常のあらゆる側面、あらゆる思考、あらゆる物体、あらゆる関係、環境、習慣が邪な力に付き纏われているという拭い去れない考えに侵されてしまう。やがて訪れる死の瞬間まで。
via:Top 10 Unbearable Phobias/
☆まったく縁のない話なのだが・・・!
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多かれ少なかれ、人間なんらかの弱点はあるはずだ。私の場合短命な家系なので死、とくにガンに対しての恐怖は並々ならぬものがあり、なんとか克服しようと自己分析を行っている最中だ。
人は死ぬために生まれてきたわけだしぃ、人生は死ぬまでがセットだしぃ。とか達観しようとする自分がいる一方で、ちょっと具合が悪くても怖くて病院に行けない自分もいる。
というわけで人の数だけ恐怖の対象があるわけだ。だが”恐怖症”と呼ばれる病的な恐怖を持つのは一部の人間だけだ。
中には非常に堪え難い、その人の生活にまで影響するような恐怖症がある。この記事を読む際は、本当にその恐怖症で苦しんでいる人がいるということを頭に入れておこう。患者の苦しみを理解し、そして共感することが大切なのだ。
10. 起立恐怖症―歩行や立ち上がることへの恐怖
その影響を想像してみよう。ただ立ち上がって、歩こうと考えるだけで恐怖を感じるのである。一体どうやって普通の生活を送れというのだろうか? モーター付きの車椅子で常に移動するわけにもいかない。かといって人間は翼で空を飛ぶことができない。患者は生きている限り、来る日も来る日も繰り返し恐怖に襲われる。
9. 決断恐怖症―決断することへの恐怖
おわかりのように、一部の恐怖症は深層心理に根ざした結果だ。決断することが死ぬほど恐ろしかったとしたら、どうやって日常生活を送ればいいだろうか? 他人に決めてもらうよう頼むのだろうか? しかし、それもまた決断なのでは? 単純になすがままを貫き、日常的に起こる当たり前の出来事には干渉しないようにするのだろうか? だが、やはりそれもまた決断なのでは?
決断恐怖症の患者は常に洪水のような考えに身を置いているに違いない。決断について考えている限りは恐怖を感じない。彼らを恐怖させるのは決断するという行為であるからだ。つまり、あらゆるこの世との関わりがトラウマになるほどの恐怖を与えているということだ。
8. 知識恐怖症―知識への恐怖
学校も、教育も、新しいことを知ることも、全部だめだ。知識恐怖症を発症することは、認知的な成長に上限を定めるのと同義である。学習の際に襲いかかる堪え難い恐怖に直面する意思がない限りは、もはや何も学べない……ということを理解する能力すら制限することになるのだ。
7. 食物恐怖症(拒食症)―食べ物への恐怖
食べ物は生きるために必要なものだ。その食べ物に怯えなくてはならない。それが食物恐怖症だ。選択肢は二つある。一つ、一切の食べ物を拒否し、栄養不良と脱水で自らを死に追いやる。二つ、口に食べ物を運ぶたびに骨の髄が凍りつくような恐怖を味わいつつ、どうにか生きながらえる。
あなたにも大好きな食べ物はあるだろう。だが、食物恐怖症に陥った途端、そうした楽しみは一切が苦しみに変わってしまう。
6. 睡眠恐怖症―眠りへの恐怖
食物恐怖症と同じく、これもまた生きるには必須の行為に関連する。数日間何も食べなくても平気な人はいるかもしれないが、睡眠の場合は1日でも欠かせばまともに活動することは難しい。
この恐怖症による生理的、心理的疲労はいかほどのものだろうか? 起きていればいるほど、体の生理機能はダメージを受け、脳の機能も衰える。だが、眠ろうとしようものなら圧倒的な恐怖に襲われ、眠れなくなる。そんな恐怖を抱えて生きなければならない。
5. 音響恐怖症―自分の声を含む、音への恐怖
さらに奇妙な制約を加える恐怖症に移ろう。音に怯えなければいけない人はどのような暮らしを送るのか? 防音室にでも引きこもるのだろうか? 耳栓が手放せない? あるいは外科的に耳を聞こえなくしてしまうことも? どれも思い切った決断が必要かもしれないが、他にいい方法が思い浮かばない。
部屋の中を飛び回るハエの音や、遠くから聞こえてくる車や雷の音、さらには自分自身の声まで恐ろしい。恐怖のあまり手で耳を塞いでも無駄だ。体内から血液の流れが聞こえてくるのだから。
4. 時間恐怖症―時間経過や時間そのものへの恐怖
ロジカルに考えるなら、時間への恐怖は、”過去、現在、未来”あるいは”遅い、早い”といった時間に付随する概念への恐怖も内包すると考えていいだろう。なんと恐ろしいことだろう。だが、たとえ時間恐怖症の患者が言葉や時間に付随する概念には恐怖を覚えないのだとしても、時間自体やその経過には恐怖する。そして人間とは絶えず刻み続ける時を意識する存在である。
この恐怖症に取り憑かれてしまったと想像してほしい。そして古い時計が刻む針を目にしてしまったら……チクタク、チクタク、チクタク……その毎秒毎秒が魂をおののかせるような恐怖となって迫る。
3. 対抗恐怖―恐怖症ゆえに恐ろしい状況を選好する
難解な理解に苦しむ恐怖症である。ある恐怖症があったとする。そしてその人物はひどい不快感や恐怖を呼び起こすような状況や物体を追い求めるのだ。どこか歪んだマゾヒズムのようだが、これは恐怖症と戦うためにそうした行為を行うのだと考えられている。
「恐怖に立ち向かえ」という古い格言がある。対抗恐怖の患者ならやすやすと実践してみせるだろう。彼らは激しい恐怖を克服しようと自らを恐ろしい状況に置く。無論、効果はない。ゆえに常に闘争・逃走反応に身を晒さねばならない。したがって、この患者は恐怖症に起因する一般的な精神衰弱を利用して、もう一段階上の心理的問題を付け加えるのだ。
2. 恐怖症恐怖―恐怖症を発症することへの恐怖
恐怖を味わうのではないかと恐怖する。ちょっと待て。それはすでに恐怖である。ならば、恐怖症恐怖とは自己に言及した恐怖なのだろうか? 恐怖症というよりもパラドックスや頭の体操なのではないかと思わせる、なんとも複雑な恐怖である。
彼らは恐怖の発症を恐れている。しかし、彼らはすでに恐怖を発症している。つまり恐怖症恐怖とは自分自身の恐怖に永遠に恐怖を継ぎ足しているということになる。実に、実に恐ろしい。
1. 汎恐怖症―あらゆるものへの恐怖
ありとあらゆるものが恐ろしいという恐怖症である。あるソースでは、この恐怖症を「なんだかよくわからない邪悪への曖昧で、持続した恐れ」と説明している。
汎恐怖症とは日常を全く普通に送ることができる。ただし、普遍的かつ深遠な悪意ある力がどこかに存在するという絶え間ない恐怖に常に苛まれているのだ。
ここで紹介した他の恐怖症は特定の原因に言及しているのに対して、これは恐怖が遍在しているという点で圧倒的である。どこに行こうと、何をしようと、この恐怖症に囚われた者は日常のあらゆる側面、あらゆる思考、あらゆる物体、あらゆる関係、環境、習慣が邪な力に付き纏われているという拭い去れない考えに侵されてしまう。やがて訪れる死の瞬間まで。
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