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写真は一種の記録装置である。
当時のありのままの様子が後世に伝えられていくわけだが、そのすべてが真実ではない。
なにげない光景や、穏やかに笑っている表情の裏に、恐ろしい事実が隠されている場合だってあるのだ。
意図しようがしまいが、人はカメラを向けられるとポーズをつくってしまうものだ。ここでは5つの写真の裏に隠された恐ろしい話を見ていこう。
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1. ローソン一家の家族写真。この時父親は一家殺害を決めていた。
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References:Lawson family Christmas Day massacre photo tells secret behind slaughter
なんらかの節目のとき、人は家族との集合写真を撮るだろう。この写真は、一見ありふれた家族写真に見える。
だがほぼ全員がぎこちない感じがする。特に後列右から2番目に立っている父親は、どこかあらぬ方向を見るような目をしている。
彼の名前は、チャールズ・ローソン。この時、彼はすでに、ここに写っている家族を殺す計画を胸に秘めていた。
ローソン家は、ノースカロライナでタバコ農家として食いつないでいた貧乏な家だった。貧乏がチャールズの肩に重くのしかかっていたことは間違いないが、彼の心が穏やかでないもうひとつの原因があった。
娘のマリー(後列左から二番目)に性的暴行を加え、妊娠させてしまったことだった。
マリーはそのことをまわりの者に打ち明けていた。
1929年のクリスマスの1週間前、チャールズは家族写真を撮ることに決めた。もう金の心配する必要がなかったからだ。
クリスマスの午後、チャールズは12口径のショットガンを持って納屋に隠れ、おじの家に行く途中の娘キャリー(前列一番右)とメイベル(前列左から2番目)を待ち伏せした。チャールズはふたりを至近距離で撃ち、銃の台尻でとどめをさした。そのまま母屋のほうへ戻ると、玄関先で妻のファニー(後列一番右)を撃ち殺し、家の中に突入した。
マリーは悲鳴をあげたが、チャールズは彼女とお腹の赤ちゃん(孫)を平然と撃った。幼いジェームズ(前列一番左)とレイモンド(前列右から2番目)は逃げたが、チャールズは追いかけて仕留めた。最後はまだ赤ん坊のメアリー・ルー(ファニーの腕の中)だった。
弾を無駄にすることなく殺戮を終えると、チャールズはその後すぐに森の中で自殺した。ただひとり生き残ったのは、そのとき家にいなかったアーサー(後列一番左)だけだった。
ありふれたこの写真は、錯乱した家長によって惨殺された家族の最後の記録となった。
2. アラスカでくつろいでいる男性は、餓死寸前だった
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References:Christopher McCandless| Britannica.com
くつろぎながら笑顔を見せる男性。彼が寄りかかっている錆びたフェアバンクスのバスで、この場所がアラスカであることがわかる。
まさかこの男性が、ゆっくりと餓死しつつある状況だとは誰も思いもしないだろう。
男性の名前はクリストファー・マッカンドレス。この控えめな男は、自由な精神の持ち主として有名で、本や映画『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公になった。
現代社会の足枷を投げ捨て、本物の生活がしたいと公言して、自然と対話しようと、彼は1992年春にアラスカの僻地に入り込んだ。
残念なことに、自然は穏やかな対話を拒んだ。十分な訓練もせず食糧もないクリスには最初から歯が立たなかった。
なんとか食べられる植物を探しあて、ときに狩りが成功することもあったが、手に入れた食糧を適切に保存する方法も知らない人間が使える手段は限られていた。
3ヶ月後、クリスは文明世界へ戻ろうとしたが、トレイルは増水した川に阻まれていた。1.6キロ以内に川を渡れる地点があったのにそれも見つけることもできずに、すっかり途方にくれたクリスはこの打ち捨てられたバスまで戻り、そこで最期を迎えることになった。
ハイカーがマッカンドレスを発見したとき、死後およそ3週間がたっていたという。そのやせ衰えた遺体の体重は30キロしかなかった。
数少ないクリスの所持品の中に、未現像のフィルムがあり、その中から上の写真が見つかった。
3. 自然を愛し、クマを愛したカップル、悲劇の前のやすらぎの表情
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References:Final cries of couple killed by bear
同じくアラスカでの写真だ。2003年、カップルが水上飛行機のフロートのところで幸せそうに微笑んでいる。
いかにもこれから大自然のアドベンチャーに乗り出そうという感じに見える彼らだが、想像を絶する出来事が起こってしまった。
男性は熱心なクマ愛好家で自然環境保護主義者のティモシー・トレッドウェルである。長年の企画であるグリズリー(ハイイログマ)のドキュメンタリーを撮るために、ガールフレンドのエイミー・ヒューゲナードとアラスカのカトマイ国立公園へ旅した。
トレッドウェルはグリズリーにとても親近感を感じていて、まるで血縁のように思っていた。
彼は自然と一体になる欲望を抱いていて、会ったすべての野生動物たちと平和に共存しようとした。
これまでも同じような冒険をしていたので、クマたちはトレッドウェルの存在に慣れたはずで、脅威とみなすことはなく、なにもしてこないだろうと思い込んでいた。
だが、それは大きな間違いだった。
2003年10月6日、この写真が撮られてすぐ、トレッドウェルとヒューゲナードはキャンプで、空腹だった一頭のグリズリーに襲われ、生きたまま食べられてしまう。
この写真はふたりの最後の姿を写したものだが、トレッドミルのビデオカメラはふたりが襲われたときもまだ作動していた。パニックになった声や断末魔の叫び声が録音されていたという。
2005年、アメリカで、ティモシー・トレッドウェルの姿を描いたドキュメンタリー映画「グリズリーマン」が公開された。
4. まさかこれが最後の軍事訓練になるとは知る由もなかった
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References:Germany invades Poland
1939年に撮影された、ポーランドの騎兵部隊の兵士たちの姿。彼らは自分たちが今まさに悲劇の崖っぷちに立っていることを知る由もなかった。
軍事訓練の一環として、ポーランド兵士たちもいつものように演習を行っていた。騎兵は、斥候としての役目を果たし、必要とあれば歩兵としても戦う。
ここに写っている兵士たちの多くは、ドイツ軍との戦いに神経を尖らせていたかもしれないが、イギリス、フランス、ポーランドの同盟軍がすぐに援軍としてかけつけてくれると確信していた。
だが、残念なことにそうはならなかった。数週間のうちに圧倒的な集中攻撃を受け、同盟軍は迅速に動くことができなかった。このポーランド騎兵部隊は孤立し、全滅していった。
ドイツの怒涛の戦車群と機能的な歩兵部隊によって殲滅されたのだ。
5. 暗殺される直前の、はかない親善
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References:Archduke Franz Ferdinand with his wife on the day
握手は平和と友情を表わすもっとも簡単な手段だ。
もともとは武器を持っていないことを示すための握手は、互いに尊敬を表わすための最低限の基準として進化した。
この写真は、1914年6月28日、フランツ・フェルディナンド大公がにこやかに市民と握手している姿を写したもの。
その数時間以内に、自分と妻が暗殺者の銃弾に倒れることになるとは、フェルディナンドは思いもよらなかったことだろう。
そして、この死がヨーロッパじゅうにはびこる緊張に火をつけ、果ては全世界を巻き込む戦争の火ぶたになるとは、知る由もなかっただろう。
その戦争の影響で、ファシスムと共産主義の台頭、もうひとつの世界大戦、社会や文化の崩壊、原子爆弾の投下、いまだ歴史を騒がせている新たな緊張の出現をもたらすことになるとは、彼は知る術もない。
1915年のニューヨークタイムズはこう書いている。
「この2発の銃声は世界に武器をとらせ、その後に続く戦争は、3つの大陸に荒廃をもたらし、あと2つの大陸にも大いに影響を及ぼし、遥か彼方の離島にまで警鐘を鳴らした」
1914年の残響は今日まで残っている。いくつかの緊張状態は避けられなかったかもしれないが、1914年6月28日がもっと違う事態になってたら、どうなっていたか、今となっては知るのは難しい。
だが、あの握手が勢力を増して広まっていたなら、確かに世界はもっと良くなっていただろう。
☆事後見つかった写真やろ!
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