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第二次世界大戦時に使用されていた10の地下軍事施設廃墟

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 第二次世界大戦は世界各国入り乱れながら、予測不能の大規模な軍事開発が行われた時代でもある。そこでは効果的で効率的な武器の開発が進められていた。

 軍事施設は空爆などの被害を避けるため、だいたい地下に設置されていた。秘密裡に設置された地下施設は、人々に忘れ去られた現在でも、そこだけ時間が止まったかのようにその面影を残している。

工場地下にあるドイツ軍の施設(チェコ・リトムニェジツェ)
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image credit:Gerard Dykstra
 チェコ共和国は第二次世界大戦で大きな痛手を受けた国である。1938年にドイツ第三帝国に編入されたチェコ市民の多くはナチスの工場、軍隊、強制収容所に入れられた。この爪跡が特に強く残っているのがリトムニェジツェである。

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image credit:Gerard Dykstra
 リトムニェジツェにはリチャードと呼ばれた地下施設が存在し、強制収容所に入れられた多くの人が、ここでドイツ軍の為の戦車、モーター、電子機器、通信機器を作らされていた。

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image credit:Gerard Dykstra
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image credit:Gerard Dykstra
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image credit:Gerard Dykstra


ドイツ軍地下空軍工場(チェコ・ラブシュテイン)
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image credit:Radek Bartoš
 第二次世界大戦の終わりが見え始めた頃、ナチスは、戦争の風向きを一気にドイツ軍側に戻すこの出来る「奇跡の兵器」の開発に熱意を燃やしていた。

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image credit:Radek Bartoš
 ラブシュテインはそういった開発に使われた施設の一つである。強制収容所から6000人の戦犯者や政治犯がこの場所に強制的に連行され、地下施設を作らされた。数百人は過労により命を落としたか、射殺されたという。

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image credit:Radek Bartoš
 その結果4.5キロメートルの長さを誇るトンネルと11個の部屋から成る施設が完成し、そこで新たなナチスの軍事兵器開発が始まったという。

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image credit:Radek Bartoš
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image credit:Radek Bartoš
 新たなる爆弾や空軍機などが次々と作られていった。大戦後この地下施設はチェコ軍の廃棄物処理所として使われたが、現在ではツアーの一環として見学する事が出来るようになっている。


3.GKN地下施設(英国・バーミンガム)
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image credit:True British Metal
 英国軍のこの施設は、ナチスの秘密工場と同様に、爆弾による被害を受けないように地下に設計されていた。しかしドイツと大きく違っていたのはその労働力である。ここでは、数千の女性ボランティアが働いていたのだ。

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image credit:True British Metal
 当時女性が働く軍事工場というのは新しい発想であった。国のためにとボランティアスタッフを雇ったところ、多くの英国人女性がこの地下工場に集まったのである。

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image credit:True British Metal
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image credit:True British Metal
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image credit:True British Metal
 最大時には4500人の従業員を抱えていたというGKN地下施設だが、もぬけの殻となった現在、そこでどういった研究や開発が行われていたかという記録の大部分も失われてしまっている。


4.ロングブリッジ・トンネル地下工場(英国)
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image credit: UK Urban Exploration
 GNK地下工場からそう遠くない場所にも兵器製造工場があった。ロングブリッジ・トンネル地下工場は、オースチン・モーター・カンパニーの創設者であるハーバート・オースチンの資金援助のもとで作られたものだ。同創設者は第一次世界大戦の時も同様に支援を行っていた。

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image credit: UK Urban Exploration
 この暗い地下トンネルでバーミンガムの女性たちはロールスロイス・マーリンの強力なエンジンの組み立てを行っていたのである。

 このエンジンはスピットファイア、ホーカーハリケーン、ランカスター爆撃機などに搭載されたそうだ。

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image credit: UK Urban Exploration
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image credit: UK Urban Exploration
 ロングブリッジの地下工場はその中でも特別大きな工場だったという。だがハーバート・オースチン自身は、英国勝利の栄光を見る前の1941年に息を引き取っている。


5.V-1飛行爆弾とV-2ロケット製造工場(ドイツ)
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image credit:.wikimedia
 ドイツ・ミトルワークの軍事工場は、V-1とV-2の大量製造を行う為に多くの強制収容所の人々が死ぬまで労働を強制された場所でもある。

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image credit:wikimedia
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image credit:wikimedia
 終戦前の1ヵ月に開始されたドイツ軍のV-1/V-2キャンペーンはドイツ軍のブリッツ戦術によって戦争神経症になった人々にとって更に恐怖を引き起こした。

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image credit:German Federal Archives
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image credit:German Federal Archives
 音も無く空から降り注ぐV-1、短い警告ですぐさま衝撃を引き起こすV-2、その両方が相まってV-1/V-2キャンペーンのみで英国側の損害は死傷者1万人にも及んだ。更にミトルワークでの過酷な労働環境は工場内で死者1万人以上を生み出した。


6.ドイツ軍原子爆弾製造工場(オーストリア)
Nazi Secret Underground Armament Plant - Bergkristall


 オースリアのザンクト・ゲオルゲン・アン・デア・グセンには、ドイツ軍の原子爆弾製造工場があった。

 終戦前、アメリカのみならず各国が、核兵器の開発にしのぎを削っていたのである。この工場では、ドイツ初の原子爆弾を製造する為にマウトハウゼン強制収容所から多くの人々が送り込まれた。施設内ではおよそ32万人が亡くなったと言われている。

7.ドッグルストルン地下工場(ドイツ)
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image credit:wikipedia
 バイエルンにあるドッグルストルン地下工場は、フロッセンビュルク強制収容所の一部であり、戦闘機のエンジンを製造する事を目的として作られた。

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image credit:wikipedia
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image credit:wikipedia
 しかしながらこの施設が完成する事は無かった。1944年5月に建設が始まったが、オープンを前に第二次世界大戦が終わりを告げた。9500人程いた労働者のうち、4000人が死亡していたという。


8.プレッシー地下工場(英国・ロンドン)
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image credit: Sunil060902
 ブリッツ戦術が盛んだった時代、ロンドンには工場を作るスペースが徐々に少なくなっていた。軍事兵器開発会社、プレッシー社は既にあるトンネルを再利用し、ロンドン地下鉄のセントラル線のウォンステッドからガンツ・ヒルまでの間を完全な地下工場に変えた。

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image credit:wikipedia

 こうしてプレッシー地下工場は1942年に完成し、すぐさま運営が開始された。4000人の女性が朝7時半に3つの地下鉄入り口からなだれ込み、エニグマを解読する為の機械の開発等が行われた。他にもハリファックスやランカスター爆撃機の部品も製造されていたようである。

 光も無く、空気も悪いという悪環境ではあったが、従業員からの不満は少なかったようである。誰もが戦争に勝つために奮起していたのだ。ちなみにウォンステッドからガンツ・ヒルまでのセントラル線は1947年12月14日に完成したそうだ。


9.ハインケルHe162戦闘機製造所(ドイツ)
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image credit:German Federal Archives
 He162戦闘機はナチスドイツが切り札として最後に切ったカードである。安価に作れるが壊れやすい。これはドイツ空軍が戦い続ける為に量産に特化した機体である。

 現在は放棄されたヒンターブリュールの地下施設はこの戦闘機が量産された場所の一つであり、マウトハウゼン強制収容所の人々が労働を強いられていたようだ。その多くはHe162戦闘機を作っている最中に過労死したという。


10.ドレイクロートンネル地下工場(英国)
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image credit:alexloma
 当初はローバー自動車の製造の為に建てられ、戦時中はブリテンの戦闘機を製造する為の施設へと変貌したが、最終的には「ロンドンが原子爆弾で攻撃された場合」の避難場所としての役割を持つこととなった。

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image credit:alexloma
 第二次世界大戦後の冷戦時、ロシアがロンドンに対して核による攻撃を行う可能性があると指摘されていた。そこで当時の官僚たちはウェストミンスターやホワイトホールが完全に淘汰された時の場合のための避難所を指定する事にしたのである。

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image credit:alexloma
 ドレイクローはその候補として最有力とされた場所であり、仮にロンドン本土が攻撃された場合でも国家を存続させるための手段として見られていた場所なのである。

via:10 Abandoned Underground Factories of the Second World War

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