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1年に撮影される写真は1兆枚にも上ると推定されている。その大半は個人的なものだが、中には分類できない類の写真もある。また、中には謎めいたものすらある。ここで挙げる10枚の写真は、全世界に解くことのできないミステリーを残した作品だ。
10. 超高層ビルの男たちの身元
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歴史上最も象徴的な写真の1枚だろう。ニューヨークの高所に渡された鉄骨の上に男性が並んで座って、和気あいあいと昼食を食べている。ネット上で何度となく見る写真だが、ほとんど何も分かっていない。
まず、これほど有名な作品なのに撮影者が誰だか分からない。長年、ルイス・ハインとされてきたが、最近の研究によれば、それはあり得ないのだという。可能性のある候補としては、ロックフェラーセンターの元写真責任者チャールズ・C・エベッツが挙げられるが、広報担当のトーマス・ケリーやウィリアム・レフトウィッチである可能性もある。
それが判明したとしても、そもそも被写体が誰なのかという疑問が残る。撮影者と同じく、男性たちのほとんどは名前が分からない。2012年になってようやく、2名についてはジョセフ・エッケナーとジョー・カーティスと判明し、他の2名についてもマティ・オショネッシーとパトリック・グリンではないかと推測されるまでにはいたった。だが、他の7名の身元は、20世紀最高の写真の被写体であるにもかかわらず、依然として不明だ。時が経つにつれて、その手がかりは消えてゆく。
9. 最初に撮影された人物の身元
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1838年、パリに住むある住人がブールバール寺院で靴を磨いてもらうために立ち止まったことから、偶然にも歴史に残ることになった。まさにその瞬間、ルイ・ダゲールが付近にあった建物の屋上から自身が発明したダゲレオタイプで、通りの写真を撮影していたのだ。露出が終わるまでに7分かかったため、道路に往来は何も写っていない。だが、このパリの男性は、たまたまそこで7分間動かずに時間を費やすことになった。その結果、彼は歴史上初めて記念すべき写真の被写体となった。だが、彼についてそれ以上のことは何も分からない。
彼の生涯、容姿、仕事、収入、理想、家族、出自など、一切が闇に包まれている。彼がパリ人で、本当に靴を磨いてもらっていたのかさえ定かではない。水のポンプの前に立っているという説もあるほどだ。また、写真に写っているのは彼だけではないとする説もある。靴磨きの少年は動きが激しく写っていないが、窓から覗くぼやけた人影らしきものもまた、無名の栄誉に浴していた人物だった可能性がある。
8. カラー写真が初めて撮影された日
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1861年、トーマス・サットンとジェームズ・クラーク・マクスウェルは、緑赤青のフィルターを通して、タータンリボンの写真を3枚撮影した。そして、これらを組み合わせることで、1枚の画像を完成させた。カラー写真の誕生である。だが、実はそれは10年前に既に登場していたのかもしれないのだ。
1851年冬、世界初のプロ向け写真雑誌『ダゲレアン・ジャーナル』に1通の手紙が届いた。送り主は、レヴィ・ヒル。カラー写真を発明したと主張する人物だ。ヒロタイプという装置で既に45枚の写真を撮影したという。手紙には撮影した作品が同封され、ヒロタイプの試作品を間もなく公開する予定だと締めくくられていた。
ダゲレオタイプの専門家は怒り狂った。それは、どこの馬の骨とも知れない田舎者が自宅の地下室で、完璧なヴァーチャルリアリティを完成させたと聞いたのと同じようなものだった。だが、事態は妙な方向へ進んでいった。ヒルの発表は延期に延期を重ねられ、やがては誰もが彼を詐欺師呼ばわりするようになった。そして、ヒル自身も消息を絶った。それから数十年間というもの彼のことは単なる詐欺師だったということで決着がついていた。
ところが、話はそう単純ではなかった。21世紀初頭になって、専門家チームがスミソニアン博物館に残されたヒロタイプ作品を解析したところ、わずかに色が検出されたのだ。そのうちの幾つかは手が加えられたものだったが、全てがそうではないようだった。今となっては、彼が詐欺師だったのか、それとも本当に最初のカラー写真を撮影した人物だったのかを知る術はない。
7. 南北戦争の写真の行方
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アレックス・ガードナーによる『南北戦争』は史上初めて撮影された戦争の写真で、そこに横たわる遺体の姿が、私たちの戦争への見方を永遠に変えてしまった。
ガードナーの名前を聞いたことがなくても、写真を見たことがあるという人は多いだろう。リンカーン元大統領暗殺犯の絞首刑や、暗殺前のポートレートは彼の作品だ。戦場で撮影した彼の写真は優れたものが多いが、その権利は雇用主に帰属している。彼の死後、多くのネガが紛失した。ある写真家が1893年に発見しなければ、永遠に失われていたことだろう。こうして発見された写真は、歴史上最も重要な作品として祭り上げられたが、間も無く再び消えてしまう。
今日まで、その行方は不明である。ごく一部のみが博物館に収蔵され、あとは消えたままだ。こうして19世紀最大のネガは、再び発見されるのを待っている。
6. 装甲艦ジョージアの詐欺
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硬い装甲に包まれた戦艦ジョージアは1863年に完成たが、20ヶ月後に鹵獲を防ぐために破壊された。写真に撮られたことはないと考えられてきたが、1980年代半ばになって、ジョン・ポッターという人物がガレージセールで本物と思わしき写真に出会った。時価となっていた写真を購入するほどの資金がなかったため、これを写真に撮り、友人の歴史家に送って鑑定を依頼した。両者は真作であることで意見の一致を見たが、この時点で写真は既に失くなってしまっていた。
それから数年間、写真は伝説となった。ジョージアは設計図も、詳細な画像も残されていないため、この写真は唯一無二のものである。2014年には、アメリカ陸軍工兵司令部までがその行方を突き止めようと動き出した。だが、2015年、ポッターはこれを全て作り物であると発表する。彼は注目を集めるために偽写真を作ったのだという。
だが、本当だろうか? AP通信は、ポッターが二重詐欺を行っているのではないかと推測する。彼の友人もポッターは本物の写真を所有していたことがあり、高値で売るつもりだったと証言している。謎が謎を呼び、真実は当分分かりそうもない。
5. 無名のマーゲイトの家族
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名も知れないマーゲイトの家族は、イギリスにおいて最も新しく、しかも魅惑的な謎の1つだ。2015年、スコットランド博物館はヴィクトリア朝の写真コレクションを入手した。ほとんどはスーツ姿の男性と厳しい表情を浮かべた女性の写真だったが、一際目を引くものもあった。このコレクションは、ケント州マーゲイトで余暇を楽しむ一家族を何度も写したものだ。だが、写真を見ていくと彼らは歳を重ねていくのだ。子供の背は伸び、赤ちゃんの妹が現れる。まるで、この家族を主題とした映画を見ているかのようだ。
写真から、家族の素性について知れることはなく、手がかりはまるでない。唯一、裏に記載されていたサインから、撮影者がW・コルダーというプロの写真家であるということは判明している。それ以外は一切が謎である。
この写真からは、家族の人生が生き生きと伝わってくる。ポーズをとり、休憩し、またときには遊んでいる。彼らの喜びや生活、子供の成長が見て取れ、それは突然途切れてしまう。彼らは何者で、なぜ突然マーゲイトへ行かなくなったのだろうか?
4. グリムスリーパーの被害者
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グリムスリーパーは、1985~2007年にかけてロサンゼルスで少なくとも11人を殺害したと考えられている連続殺人犯だ。容疑者のロニー・フランクリンJrが逮捕されたとき、警察は自宅から180枚以上の女性の写真を押収した。ほとんどは彼の家か車の中で撮影したことが判明している。写真の女性たちは眠っているか、意識不明か、あるいは死んでいるかのように見える。唯一生存している被害者は、銃で撃たれ、強姦された後、車の中で写真を撮られたと証言している。
2010年に公開してから、警察はそのほとんどの女性の身元を特定したが、数人ほど判明していない人物もいる。ロサンゼルス警察では、現在もサイト上で身元不明の38枚の写真を公開中だ。明るい戸外で撮られたものもあれば、薄暗いものもある。少なくとも4枚は、よくて意識不明の女性が写されている。何か目に見えないものに怯えているかのような写真もある。なお、彼女たちは身元のみならず、生死も不明である。
3. 崩れる兵士の真実
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スペイン内戦で共和国派の兵士が銃に撃たれ、崩れ落ちる瞬間を捉えた、ロバート・キャパの最も有名な作品の1つだ。と同時に、最も激しく議論が交わされる作品でもある。今日まで、この写真が本物なのか、キャパによるやらせなのか判然としないのだ。
どちらの主張もそれなりの根拠がある。スペインの新聞社が2009年に行った調査では、撮影現場はエスペホ郊外であると特定されている。エスペホで激戦が繰り広げられたのは確かであるが、ここが戦火に見舞われたのは写真が新聞に掲載された3週間後のことだ。さらに、90年代半ばに発見されたキャパのネガからは、同時に撮影されたやらせ写真と思わしきものが見つかっており、本作品でもその可能性を匂わせる。
一方で、国際写真センターの専門家たちは、写真が本物であると信じている。一説によれば、これはスナイパーの狙撃を受けたことで、やらせ写真が本物になったしまったものなのだという。だが、この見解は、兵士は機関銃によって死んだというキャパの説明とは食い違っている。決定的な証拠が出ない限りは、この最も有名な写真は謎に包まれたままだろう。
2. 赤の広場のレーガン元大統領と観光客
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1988年、当時のレーガン大統領はモスクワへ旅立った。その途中で、赤の広場にも立ち寄り、地元のロシア人と会見している。少年と握手を交わす写真は、ホワイトハウスのカメラマンによって撮影された。これについて変わった点はない。だが、少しオタクじみた金髪の観光客がこれを見守っている。いくつかのソースによれば、この男性は若き日のウラジーミル・プーチン大統領である可能性があるのだ。
だが2009年、それを指摘されたロシア側は即座に否定している。しかし、この主張にはいくつかの根拠がある。まず、KGBはエージェントを一般のロシア人に扮装させ、レーガン元大統領に難しい質問をさせている。当時、プーチン大統領はKGBの一員だったのだから、そこにいてもおかしくはない。もう1つの根拠は、写真の男性はプーチン大統領とそっくりなのだ。
これを指摘したピート・ソウザは、未だに金髪の男性は若き日のプーチン大統領であると主張しているが、ロシア側は、当時プーチン大統領はドレスデンで勤務していたとして、頑なに否定している。
1. クメール・ルージュの名もなき犠牲者たち
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カンボジアで虐殺を行ったポル・ポト派クメール・ルージュの恐怖は語り継がれている。中でもS21は群を抜く。元学校を政治犯収容所としたS21には、ポル・ポト政権下の4年間で17000人の人が収容された。生き残ったのは10人以下である。囚人は数日間拷問された後、田舎へ輸送され、死ぬまで殴られ続け、合同墓地に放り込まれた。犠牲者の大半の身元は分かっていない。
S21の看守たちによって、囚人を写した数千枚の写真が残されている。その多くの人が写真でしか知ることができない。S21がようやく閉鎖されたとき、ほぼ全ての写真がファイルから抜き取られた。現存する6000枚のうち、身元が判明しているのはごくごく一握りだ。
怯える反体制派の人、暗い表情を浮かべる年老いた男性、涙を流す少年など、どの顔も名前を知ることはできない。名前も、その命も、一切が消し去られてしまっている。我々にできることは、写真を前にして、その人物が誰なのか、そしてなぜクメール・ルージュは彼らを殺さなければならなかったのか想像することだけだ。
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1年に撮影される写真は1兆枚にも上ると推定されている。その大半は個人的なものだが、中には分類できない類の写真もある。また、中には謎めいたものすらある。ここで挙げる10枚の写真は、全世界に解くことのできないミステリーを残した作品だ。
10. 超高層ビルの男たちの身元
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歴史上最も象徴的な写真の1枚だろう。ニューヨークの高所に渡された鉄骨の上に男性が並んで座って、和気あいあいと昼食を食べている。ネット上で何度となく見る写真だが、ほとんど何も分かっていない。
まず、これほど有名な作品なのに撮影者が誰だか分からない。長年、ルイス・ハインとされてきたが、最近の研究によれば、それはあり得ないのだという。可能性のある候補としては、ロックフェラーセンターの元写真責任者チャールズ・C・エベッツが挙げられるが、広報担当のトーマス・ケリーやウィリアム・レフトウィッチである可能性もある。
それが判明したとしても、そもそも被写体が誰なのかという疑問が残る。撮影者と同じく、男性たちのほとんどは名前が分からない。2012年になってようやく、2名についてはジョセフ・エッケナーとジョー・カーティスと判明し、他の2名についてもマティ・オショネッシーとパトリック・グリンではないかと推測されるまでにはいたった。だが、他の7名の身元は、20世紀最高の写真の被写体であるにもかかわらず、依然として不明だ。時が経つにつれて、その手がかりは消えてゆく。
9. 最初に撮影された人物の身元
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1838年、パリに住むある住人がブールバール寺院で靴を磨いてもらうために立ち止まったことから、偶然にも歴史に残ることになった。まさにその瞬間、ルイ・ダゲールが付近にあった建物の屋上から自身が発明したダゲレオタイプで、通りの写真を撮影していたのだ。露出が終わるまでに7分かかったため、道路に往来は何も写っていない。だが、このパリの男性は、たまたまそこで7分間動かずに時間を費やすことになった。その結果、彼は歴史上初めて記念すべき写真の被写体となった。だが、彼についてそれ以上のことは何も分からない。
彼の生涯、容姿、仕事、収入、理想、家族、出自など、一切が闇に包まれている。彼がパリ人で、本当に靴を磨いてもらっていたのかさえ定かではない。水のポンプの前に立っているという説もあるほどだ。また、写真に写っているのは彼だけではないとする説もある。靴磨きの少年は動きが激しく写っていないが、窓から覗くぼやけた人影らしきものもまた、無名の栄誉に浴していた人物だった可能性がある。
8. カラー写真が初めて撮影された日
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1861年、トーマス・サットンとジェームズ・クラーク・マクスウェルは、緑赤青のフィルターを通して、タータンリボンの写真を3枚撮影した。そして、これらを組み合わせることで、1枚の画像を完成させた。カラー写真の誕生である。だが、実はそれは10年前に既に登場していたのかもしれないのだ。
1851年冬、世界初のプロ向け写真雑誌『ダゲレアン・ジャーナル』に1通の手紙が届いた。送り主は、レヴィ・ヒル。カラー写真を発明したと主張する人物だ。ヒロタイプという装置で既に45枚の写真を撮影したという。手紙には撮影した作品が同封され、ヒロタイプの試作品を間もなく公開する予定だと締めくくられていた。
ダゲレオタイプの専門家は怒り狂った。それは、どこの馬の骨とも知れない田舎者が自宅の地下室で、完璧なヴァーチャルリアリティを完成させたと聞いたのと同じようなものだった。だが、事態は妙な方向へ進んでいった。ヒルの発表は延期に延期を重ねられ、やがては誰もが彼を詐欺師呼ばわりするようになった。そして、ヒル自身も消息を絶った。それから数十年間というもの彼のことは単なる詐欺師だったということで決着がついていた。
ところが、話はそう単純ではなかった。21世紀初頭になって、専門家チームがスミソニアン博物館に残されたヒロタイプ作品を解析したところ、わずかに色が検出されたのだ。そのうちの幾つかは手が加えられたものだったが、全てがそうではないようだった。今となっては、彼が詐欺師だったのか、それとも本当に最初のカラー写真を撮影した人物だったのかを知る術はない。
7. 南北戦争の写真の行方
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アレックス・ガードナーによる『南北戦争』は史上初めて撮影された戦争の写真で、そこに横たわる遺体の姿が、私たちの戦争への見方を永遠に変えてしまった。
ガードナーの名前を聞いたことがなくても、写真を見たことがあるという人は多いだろう。リンカーン元大統領暗殺犯の絞首刑や、暗殺前のポートレートは彼の作品だ。戦場で撮影した彼の写真は優れたものが多いが、その権利は雇用主に帰属している。彼の死後、多くのネガが紛失した。ある写真家が1893年に発見しなければ、永遠に失われていたことだろう。こうして発見された写真は、歴史上最も重要な作品として祭り上げられたが、間も無く再び消えてしまう。
今日まで、その行方は不明である。ごく一部のみが博物館に収蔵され、あとは消えたままだ。こうして19世紀最大のネガは、再び発見されるのを待っている。
6. 装甲艦ジョージアの詐欺
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硬い装甲に包まれた戦艦ジョージアは1863年に完成たが、20ヶ月後に鹵獲を防ぐために破壊された。写真に撮られたことはないと考えられてきたが、1980年代半ばになって、ジョン・ポッターという人物がガレージセールで本物と思わしき写真に出会った。時価となっていた写真を購入するほどの資金がなかったため、これを写真に撮り、友人の歴史家に送って鑑定を依頼した。両者は真作であることで意見の一致を見たが、この時点で写真は既に失くなってしまっていた。
それから数年間、写真は伝説となった。ジョージアは設計図も、詳細な画像も残されていないため、この写真は唯一無二のものである。2014年には、アメリカ陸軍工兵司令部までがその行方を突き止めようと動き出した。だが、2015年、ポッターはこれを全て作り物であると発表する。彼は注目を集めるために偽写真を作ったのだという。
だが、本当だろうか? AP通信は、ポッターが二重詐欺を行っているのではないかと推測する。彼の友人もポッターは本物の写真を所有していたことがあり、高値で売るつもりだったと証言している。謎が謎を呼び、真実は当分分かりそうもない。
5. 無名のマーゲイトの家族
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名も知れないマーゲイトの家族は、イギリスにおいて最も新しく、しかも魅惑的な謎の1つだ。2015年、スコットランド博物館はヴィクトリア朝の写真コレクションを入手した。ほとんどはスーツ姿の男性と厳しい表情を浮かべた女性の写真だったが、一際目を引くものもあった。このコレクションは、ケント州マーゲイトで余暇を楽しむ一家族を何度も写したものだ。だが、写真を見ていくと彼らは歳を重ねていくのだ。子供の背は伸び、赤ちゃんの妹が現れる。まるで、この家族を主題とした映画を見ているかのようだ。
写真から、家族の素性について知れることはなく、手がかりはまるでない。唯一、裏に記載されていたサインから、撮影者がW・コルダーというプロの写真家であるということは判明している。それ以外は一切が謎である。
この写真からは、家族の人生が生き生きと伝わってくる。ポーズをとり、休憩し、またときには遊んでいる。彼らの喜びや生活、子供の成長が見て取れ、それは突然途切れてしまう。彼らは何者で、なぜ突然マーゲイトへ行かなくなったのだろうか?
4. グリムスリーパーの被害者
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グリムスリーパーは、1985~2007年にかけてロサンゼルスで少なくとも11人を殺害したと考えられている連続殺人犯だ。容疑者のロニー・フランクリンJrが逮捕されたとき、警察は自宅から180枚以上の女性の写真を押収した。ほとんどは彼の家か車の中で撮影したことが判明している。写真の女性たちは眠っているか、意識不明か、あるいは死んでいるかのように見える。唯一生存している被害者は、銃で撃たれ、強姦された後、車の中で写真を撮られたと証言している。
2010年に公開してから、警察はそのほとんどの女性の身元を特定したが、数人ほど判明していない人物もいる。ロサンゼルス警察では、現在もサイト上で身元不明の38枚の写真を公開中だ。明るい戸外で撮られたものもあれば、薄暗いものもある。少なくとも4枚は、よくて意識不明の女性が写されている。何か目に見えないものに怯えているかのような写真もある。なお、彼女たちは身元のみならず、生死も不明である。
3. 崩れる兵士の真実
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スペイン内戦で共和国派の兵士が銃に撃たれ、崩れ落ちる瞬間を捉えた、ロバート・キャパの最も有名な作品の1つだ。と同時に、最も激しく議論が交わされる作品でもある。今日まで、この写真が本物なのか、キャパによるやらせなのか判然としないのだ。
どちらの主張もそれなりの根拠がある。スペインの新聞社が2009年に行った調査では、撮影現場はエスペホ郊外であると特定されている。エスペホで激戦が繰り広げられたのは確かであるが、ここが戦火に見舞われたのは写真が新聞に掲載された3週間後のことだ。さらに、90年代半ばに発見されたキャパのネガからは、同時に撮影されたやらせ写真と思わしきものが見つかっており、本作品でもその可能性を匂わせる。
一方で、国際写真センターの専門家たちは、写真が本物であると信じている。一説によれば、これはスナイパーの狙撃を受けたことで、やらせ写真が本物になったしまったものなのだという。だが、この見解は、兵士は機関銃によって死んだというキャパの説明とは食い違っている。決定的な証拠が出ない限りは、この最も有名な写真は謎に包まれたままだろう。
2. 赤の広場のレーガン元大統領と観光客
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1988年、当時のレーガン大統領はモスクワへ旅立った。その途中で、赤の広場にも立ち寄り、地元のロシア人と会見している。少年と握手を交わす写真は、ホワイトハウスのカメラマンによって撮影された。これについて変わった点はない。だが、少しオタクじみた金髪の観光客がこれを見守っている。いくつかのソースによれば、この男性は若き日のウラジーミル・プーチン大統領である可能性があるのだ。
だが2009年、それを指摘されたロシア側は即座に否定している。しかし、この主張にはいくつかの根拠がある。まず、KGBはエージェントを一般のロシア人に扮装させ、レーガン元大統領に難しい質問をさせている。当時、プーチン大統領はKGBの一員だったのだから、そこにいてもおかしくはない。もう1つの根拠は、写真の男性はプーチン大統領とそっくりなのだ。
これを指摘したピート・ソウザは、未だに金髪の男性は若き日のプーチン大統領であると主張しているが、ロシア側は、当時プーチン大統領はドレスデンで勤務していたとして、頑なに否定している。
1. クメール・ルージュの名もなき犠牲者たち
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カンボジアで虐殺を行ったポル・ポト派クメール・ルージュの恐怖は語り継がれている。中でもS21は群を抜く。元学校を政治犯収容所としたS21には、ポル・ポト政権下の4年間で17000人の人が収容された。生き残ったのは10人以下である。囚人は数日間拷問された後、田舎へ輸送され、死ぬまで殴られ続け、合同墓地に放り込まれた。犠牲者の大半の身元は分かっていない。
S21の看守たちによって、囚人を写した数千枚の写真が残されている。その多くの人が写真でしか知ることができない。S21がようやく閉鎖されたとき、ほぼ全ての写真がファイルから抜き取られた。現存する6000枚のうち、身元が判明しているのはごくごく一握りだ。
怯える反体制派の人、暗い表情を浮かべる年老いた男性、涙を流す少年など、どの顔も名前を知ることはできない。名前も、その命も、一切が消し去られてしまっている。我々にできることは、写真を前にして、その人物が誰なのか、そしてなぜクメール・ルージュは彼らを殺さなければならなかったのか想像することだけだ。
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