
人類の歴史は闘争の歴史でもある。人が人である故に日々、様々な種類の戦いが行われており、人と人の争いが終わることはないだろう。
だが、本当の窮地に陥った時、救ってくれるのもまた人である。
時にその身を投げうって、困った人の為に全力を尽くすのも人なのである。
争いと助け合い。相反する2つの面がオセロの石のようにパタパタとひっくり返したり、ひっくり返されながら生きているのが人という存在なのかもしれない。
1. 真の英雄のハスキー犬たち

image credit:dogpack
1925年、ジフテリアの大流行はアラスカのノーム岬の町全体を壊滅させるほどの脅威となった。アラスカはその殺人的な冬の寒さのせいで世界からとりのこされ、病気の治療もままならない地だったので、抗毒素血清が送られることになった。
全行程674マイル以上(1085キロ)の氷と雪に覆われた道のりを、ハスキー犬による犬ぞりチーム20組でひたすらリレーして届けたのだ。
当時、血清の有効期限は2日しかなく、一刻の猶予もなかったので、マッシャーのレオンハルト・セパーラは、犬たちに氷河を横断させた。だが、ブリザードが近づいていて、氷が砕けて水面が見えているような場所を、まったく視界のきかないまま何マイルも進むしかなくなった。
セパーラはナビをチームのリード犬トーゴに託し、トーゴは見事、死と隣り合わせの危険な旅をガイドした。
そしてついに、ハスキー犬バルト率いるチームが、わずか半日でノームに入り、無事血清を届けることができた。これにより、1万人の命が救われた。
2. スコットランド、ロッカビーの悲劇への忘れえぬ思いやり

image credit:Wikipedia
パンナム103便がテロによって爆破されたのは1988年のことだ。スコットランド、ロッカビーの町には空からその残骸が降り注ぎ、通りに散乱した。
住民たちは、この便に乗っていた犠牲者たちの衣類など遺留品をきれいにして梱包し、遺族が受け取ることができるようにした。
市庁舎には、この悲劇を忘れないようにするためのステンドグラスの窓があり、シラキュース大学(犠牲者の多くがここの学生だった)は、ロッカビーの高校卒業生のために客員奨学金制度をつくった。
3. 激戦地で敵軍と共に祝ったクリスマス

第一次大戦が始まって初めてのクリスマス(1914年12月)、塹壕戦では地獄のような戦いがくりひろげられていたが、前線の敵味方同士が兵士レベルで非公式に停戦に合意した。
塹壕線のいたるところで、敵対している者同士が中間地帯に出て行って、互いに贈り物を交換し合い、サッカーの試合をし、普通の仲間同士のようにふるまった。
鉄条網が張り巡らされ、砲弾の穴があちこちにあく現場で、一緒に声を合わせてクリスマスキャロルを歌ったのだ。
4. 女性戦闘員同士に芽生えた友情

多くの敵を倒したロシアの凄腕スナイパー、リュドミラ・パヴリチェンコは、第二次大戦さなかの1942年、アメリカへ赴いた。アメリカ市民に戦争支援を促すためだ。
パヴリチェンコはときの大統領夫人エレノア・ルーズベルトと共に全国をまわるツアーに乗り出し、女性戦闘員としての体験を分かち合った。エレノアとリュドミラはすぐにいい友人になった。
メディアはパヴリチェンコのこうした活動を批判し、物珍しさだけで見ていたが、彼女はシカゴの群衆の前でスピーチした。
「わたしは25歳で、これまで309人のファシストを殺してきました。男性のみなさん、あなたがたは、ずいぶん長いことわたしの影に隠れてきたと思いませんか?」
アメリカツアーの後、パヴリチェンコはロシアに戻った。エレノアと再び会えたのはその15年後のこと。
冷戦のため、パヴリチェンコの行動は制限されていたが、エレノアはモスクワに出向いて、パヴリチェンコの所在を突き止め、ボディガードをうまいことまいて、親友と再会したのだ。
5. ボストンのクリスマスツリーにはすばらしい意義がある

image credit:Wikipedia
1917年に起きたハリファックスの大爆発で、町のほとんどが破壊されたノヴァスコシアへ、ボストンが救援の手を差し伸べた。
ボストンはいの一番にこの災害に応えて、汽車で食料や水、医療品を送った。これに対して、ノヴァスコシアの人たちは、1971年以来、ボストンへ毎年木を贈り続けている。この木は、ボストンコモン(ボストン中心にある公園)に植えられ、クリスマスのためにライトアップされている。
6.地震を乗り越えて絆を結んだギリシャとトルコ

1999年、ギリシャとトルコは続けざまに大地震を経験し、互いに助けあった。
両国には非常に長い年月にわたる敵対関係の歴史があるが、この協力が関係を改善するための重要な役割を果たした。
7. 奴隷所有者を支持するより飢饉を選んだランカシャーの人々

image credit:Wikipedia
1860年代に深刻な経済危機を引き起こした、アメリカ・ランカシャーの綿花飢饉は、自らが引き起こしたものだった。
労働者たちが、奴隷労働力を使って生産されたものだとして、南部の州から輸入された綿を使うのを一斉に拒否したのだ。
アメリカはこのボイコットの意味を認め、ランカシャーの人々にリンカーン像を贈った。
8. 南北戦争時代、その身を投げうって北軍兵士を救った南軍兵士

image credit:Wikipedia
アメリカ南北戦争のとき、のちに"メアリーズ・ハイツの天使"として知られるようになったリチャード・ローランド・カークランドは、南軍の兵士だった。
フレデリックスバーグの戦いのとき、彼は前線の境界を飛び越えて戦場へ飛び出し、北軍の負傷者や瀕死の兵士を懸命に手当てした。敵兵に水や毛布などを与え、できる限り励ました。
敵方に銃撃されて命を落とす危険もあったのにだ。だが、北軍側も彼の行為に気づいて、発砲しなかったという。
References:Incredible, Real Historical Events That Will Warm Your Heart/
☆困った時はお互い様か!
男性専用コーナー!クリックしてね\(^o^)/