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"人食いハンニバル"の異名を持つ世界的に有名な連続殺人犯、ロバート・モーズリー(1953年6月26日生まれ)は、イギリスでもっとも長く刑務所にいる服役囚だ。1973年以来44年間(精神病院収容期間を除くと39年)刑務所の独房で過ごしている。
モーズリーは、現在64歳。4人を殺して、ウェイクフィールド刑務所に収容されている。被害者のうち3人は同じ刑務所の囚人だ。
ロバート・モーズリーの生い立ち
モーズリーは、1953年にリヴァプールのトラック運転手の息子として生まれた。父親が彼をひどく殴って虐待したため、幼少期を児童養護施設や精神病院で過ごした。
モーズリーは、1973年にロンドンでジョン・ファレルという男に男娼として買われた。そのとき、子供を虐待した写真を見せられて逆上し、ファレルを絞殺したのが最初の殺人だった。
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刑務所内で3人の囚人を殺害し精神病院へ
モーズリーはこの殺人で終身刑を言い渡され、その後も刑務所の中で3人の囚人を殺した。彼はイギリスでもっとも危険な服役囚のひとりとされ、1973年以来ずっと刑務所暮らしを続けている。
このリヴァプール出身の殺人犯は、通常の裁判に耐えられないとして、刑事犯専門のブロードムア精神病院へ送られた。
モーズリーは、ファレルを殺したのは、かつて彼が虐待した子どもたちの写真を見せられたからだと主張した。1977年、ブロードムアにいた間、モーズリーともうひとりの囚人で、小児性愛者の囚人を人質にとって9時間たてこもり、彼を殺した。
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殺害した囚人の脳を食べていた?
看守たちが強行突入すると、犠牲になった人質の頭蓋骨が割られてスプーンが刺さっていたという。モーズリーは、犠牲者の脳を生で食べたと噂され、人食い殺人鬼と呼ばれるようになった。
その後、モーズリーはウェイクフィールド刑務所に送られたが、そこでさらに何度か殺人を犯し、極めて危険な囚人とみなされて、現在、『羊たちの沈黙』さながらのガラス張りの独房に入れられている。
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家具はボール紙でできたものだけ、1日1時間の運動、6人の看守に監視される生活を余儀なくなれている。
イギリスでは死刑は1969年にイングランド等3地域で廃止され、1973年に北アイルランドで廃止、1998年に完全廃止された。そのためどんな凶悪犯罪をおかしても、死刑になることはない。
服役期間の長いイギリスのその他の犯罪者たち
チャールズ・ブロンソン(1974年~)
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本名マイケル・ゴードン・ピーターソン。1974年、22歳のときに郵便局を襲撃して初めて刑務所に入った。囚人を人質にとるなど、ありとあらゆる犯罪を犯して、刑期が何度も引き伸ばされた。
元アンダーグラウンドボクサーだったピーターソンは、1989年にチャールズ・ブロンソンというリングネームを名乗った。傷害、器物損壊、重傷害(GBH)、不法監禁、恐喝、脅迫、刑務所内で人質をとってたてこもり、少なくとも20人の看守を襲撃、屋根の上での抗議で50万ポンドの損害を与えて有罪になった。
長年の間に彼が引き起こした暴動は150回を数えた。1997年、ベルマーシュ刑務所にいたとき、3人の囚人を人質にとって、さらに7年刑期が延びた。
その際、キューバへ飛んで、自分の髭とフェデル・カストロの髭を比べられるよう、ヘリを要求したり、フライト中に腹がすいたときのために、アイスクリームとチーズサンドイッチ、さらに斧とサブマシンガンも要求した。
1999年、彼のスケッチを酷評した刑務所の美術教師を44時間人質にとった罪で、終身刑を言い渡された。
かつて、サダム・フセインよりも多くの人質をとったと自慢したり、セキセイインコの鳴き声がうるさいといって、インコを食ってしまったと言われている。
2014年には、ウッドヒル刑務所の刑務所長を襲撃した罪でさらに刑期が2年延びた。ブロンソンはこのような暴力歴のせいで、刑務所の独房でほとんどの時間を過ごしている。
ジョン・マッシー(1975年~)
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殺人の罪で懲役20年の判決だったが、結局イギリスでもっとも長く刑期を務めている服役囚のひとりになった。
1975年、ハックニーパブで喧嘩して追い出された後で、チャーリー・ヒギンスをショットガンで吹き飛ばした罪で初めて服役した。
36歳のマッシーは、警察に発砲して現場から逃走したが、追跡・逮捕された。刑期を終えるまであと2年というとき、シャバでの生活の準備のために自宅に戻っている間に警護の網をくぐって逃亡をはかった。
1994年、マッシーはスペインのコスタ・デル・ソルまで逃げ、そこで再び捕まるまで3年間過ごした。
2007年、仮釈放されてサウス・ロンドンの宿泊所にいるよう厳命されたにもかかわらず、逃げ出してガンで瀕死状態だった父親のジャックのところへ行った。
再び身柄を拘束されたマッシーは、2年半後にフォード・オープン刑務所に送られたが、そこでも何度も脱走をはかった。
のちにペントンヴィル刑務所に収監されたが、2012年にはここでもまた逃亡をはかる。だがその逃亡生活もたったの4日間だけで、また捕まって現在は刑務所の中でおとなしく過ごしている。
ジョン・チャイルズ(1979年~)
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冷酷な殺し屋ジョン・チャイルズは、住居侵入の罪で軍を除隊になった後、1970年代半ばに6件の契約殺人の罪で有罪になった。
彼の犠牲者の中には、10歳の少年テリー・ブレットがいた。父親のジョージがチャイルズに殺されるのを目撃してしまったため、その口封じのために殺されたのだ。
さらに、テレンス・イヴ、ロバート・ブラウン、フレデリック・シャーウッド、ロナルド・アンドリューもチャイルズの犠牲者たちだ。
彼らは銃殺がほとんどだったが、シャーウッドは7000ポンド以上の借金が原因で絞殺された。チャイルズは殺した後、バラバラにしたり、燃やしたりしたため、彼らの遺体は見つかっていない。
1979年に6件の殺人で有罪になってから、チャイルズは共犯者に不利な証言をして、契約殺人の雇い主の名前をはいた。
ピーター・サトクリフ(1981年~)
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ヨークシャー・リッパーとして知られる、この元トラック運転手は、5年間で13人の女性たちを殺した。
現在、70歳。終身刑を宣告されて1981年から服役しているが、体も衰え、刑務所を出ることはないだろうと言われている。
1970年代後半、ヨークシャーで女性が次々と襲われて殺される事件が相次ぎ、町は恐怖のどん底に突き落とされていた。犠牲者はほとんどが売春婦で、しかも遺体が切断されていて、事件が続いたため、イギリス史上最大と言われる捜査が行われた。
サトクリフは、女性たちをナイフやハンマーで襲った。最初の犠牲者は、1975年10月のウィルマ・マッキャンだという。4人の子どもの母親だったマッキャンは、ハンマーで頭を2度殴られ、ナイフで15回も刺されていた。
あまりの残虐性に、ヴィクトリア時代の連続殺人鬼ジャック・ザ・リッパーを思い出させ、ウェストヨークシャー警察が追うこの犯人は、ヨークシャー・リッパーとして知られるようになった。
1976年にふたり、翌年にはさらに3人殺しまくり、サトクリフは警察で数え入れないほどの尋問を受けたが、なぜか釈放された。
19歳の住宅金融組合の職員ジェニファー・ウィテカーや、20歳の学生バーバラ・リーチも犠牲になった。
サトクリフのハンマーとナイフの攻撃から九死に一生を得た女性たちも、その後の人生にトラウマが残った。警察にサトクリフの人相を証言できる女性もいたが、それでも、殺人を止めるのに十分ではなかった。
1981年、サトクリフは警察に車を停められ、偽のナンバープレートをつけた車の中に売春婦がいたため、彼が犯人である疑いが濃くなった。
2日間の尋問の後、サトクリフは自分がリッパーだと自白し、続いての2週間にわたるオールドベイリーでの裁判で、サトクリフは13件の殺人と7件の殺人未遂で有罪になり、1981年5月に終身刑を言い渡された。裁判で"殺せ"という声が聞こえたと証言している。
刑期2年目、サトクリフはほかの囚人から襲撃され、1997年の襲撃のときには片目を失った。精神に異常のある犯罪者用のブロードムア病院に入れられていたが、通常の刑務所に戻された。終身刑の上告は2010年に却下され、サトクリフは最期まで刑務所の中で過ごすことになるだろうと言われている。
デニース・ニルセン(1983年~)
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"親切な殺人者"として知られるこの元警察官は、一見ごく普通の人間に見え、残酷な殺しに味をしめた殺人犯とはとても思えない。
5年以上にわたって、男性ばかり16人を殺した。ほとんどが学生かホームレスで、ロンドン北部の緑の多いムスウェル・ヒルとクリックルウッドにあるニルセンの自宅に連れてきて殺した。
酒や泊まる場所をちらつかせて誘い、紐で犠牲者の首を絞めて意識を失わせ、風呂や水をはったバケツで溺れさせた。
ニルセンにとって、殺しは問題なかったが、遺体の処理が問題だった。そこで、軍隊時代に培った解体技術を使って、遺体を細かく切り刻んだ。のちに警察が語ったところによると、ニルセンは遺体の肉をボイルして、骨だけにしてからゴミとして捨てていたという。遺体の大きな部分は処理が難しかったため、そのままクローゼットや床板の下に押し込んでいた。
あるとき、友人が突然予告なしで訪ねてきたため、ニルセンはトイレにバラバラにした遺体を流した。これが彼の失脚につながった。アパートの配管が詰まってしまったため、配管工が呼ばれて調査が行われたのだ。
配管の中からおぞましいものが見つかったため、警察がニルセンの部屋に踏み込むと、さらに人間の頭部がふたつ見つかった。当時37歳だったニルセンは逮捕され、16件の殺人で起訴された。
ニルセンは1978年にパブで最初の犠牲者スティーヴン・ホームズと出会ったという。14歳のホームズは、ニルセンにクリックルウッドの家に来るよう誘われ、そこで絞殺された。ほかにも、カナダ人旅行者のケネス・オケンデンや、16歳のマーティン・ダフィーも犠牲となった。
逮捕後、ニルセンは殺人の動機を明かしていない。1983年10月の裁判では、ニルセンの魔の手を逃れてなんとか生き残った3人の男性が証言したが、彼は6件の殺人について無罪を主張した。
1983年11月、陪審員はすべての殺人でニルセンを有罪にし、彼は最低でも25年は服役することになった。
1994年、内務大臣のマイケル・ハワードは、終身刑という判決は決して自由になれないという意味だとした。現在71歳のニルセンは、自分は刑務所の中で幸せに死ぬだろうと言っている。via:Britain's longest-serving solitary confinement inmate
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"人食いハンニバル"の異名を持つ世界的に有名な連続殺人犯、ロバート・モーズリー(1953年6月26日生まれ)は、イギリスでもっとも長く刑務所にいる服役囚だ。1973年以来44年間(精神病院収容期間を除くと39年)刑務所の独房で過ごしている。
モーズリーは、現在64歳。4人を殺して、ウェイクフィールド刑務所に収容されている。被害者のうち3人は同じ刑務所の囚人だ。
ロバート・モーズリーの生い立ち
モーズリーは、1953年にリヴァプールのトラック運転手の息子として生まれた。父親が彼をひどく殴って虐待したため、幼少期を児童養護施設や精神病院で過ごした。
モーズリーは、1973年にロンドンでジョン・ファレルという男に男娼として買われた。そのとき、子供を虐待した写真を見せられて逆上し、ファレルを絞殺したのが最初の殺人だった。
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刑務所内で3人の囚人を殺害し精神病院へ
モーズリーはこの殺人で終身刑を言い渡され、その後も刑務所の中で3人の囚人を殺した。彼はイギリスでもっとも危険な服役囚のひとりとされ、1973年以来ずっと刑務所暮らしを続けている。
このリヴァプール出身の殺人犯は、通常の裁判に耐えられないとして、刑事犯専門のブロードムア精神病院へ送られた。
モーズリーは、ファレルを殺したのは、かつて彼が虐待した子どもたちの写真を見せられたからだと主張した。1977年、ブロードムアにいた間、モーズリーともうひとりの囚人で、小児性愛者の囚人を人質にとって9時間たてこもり、彼を殺した。
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殺害した囚人の脳を食べていた?
看守たちが強行突入すると、犠牲になった人質の頭蓋骨が割られてスプーンが刺さっていたという。モーズリーは、犠牲者の脳を生で食べたと噂され、人食い殺人鬼と呼ばれるようになった。
その後、モーズリーはウェイクフィールド刑務所に送られたが、そこでさらに何度か殺人を犯し、極めて危険な囚人とみなされて、現在、『羊たちの沈黙』さながらのガラス張りの独房に入れられている。
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家具はボール紙でできたものだけ、1日1時間の運動、6人の看守に監視される生活を余儀なくなれている。
イギリスでは死刑は1969年にイングランド等3地域で廃止され、1973年に北アイルランドで廃止、1998年に完全廃止された。そのためどんな凶悪犯罪をおかしても、死刑になることはない。
服役期間の長いイギリスのその他の犯罪者たち
チャールズ・ブロンソン(1974年~)
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本名マイケル・ゴードン・ピーターソン。1974年、22歳のときに郵便局を襲撃して初めて刑務所に入った。囚人を人質にとるなど、ありとあらゆる犯罪を犯して、刑期が何度も引き伸ばされた。
元アンダーグラウンドボクサーだったピーターソンは、1989年にチャールズ・ブロンソンというリングネームを名乗った。傷害、器物損壊、重傷害(GBH)、不法監禁、恐喝、脅迫、刑務所内で人質をとってたてこもり、少なくとも20人の看守を襲撃、屋根の上での抗議で50万ポンドの損害を与えて有罪になった。
長年の間に彼が引き起こした暴動は150回を数えた。1997年、ベルマーシュ刑務所にいたとき、3人の囚人を人質にとって、さらに7年刑期が延びた。
その際、キューバへ飛んで、自分の髭とフェデル・カストロの髭を比べられるよう、ヘリを要求したり、フライト中に腹がすいたときのために、アイスクリームとチーズサンドイッチ、さらに斧とサブマシンガンも要求した。
1999年、彼のスケッチを酷評した刑務所の美術教師を44時間人質にとった罪で、終身刑を言い渡された。
かつて、サダム・フセインよりも多くの人質をとったと自慢したり、セキセイインコの鳴き声がうるさいといって、インコを食ってしまったと言われている。
2014年には、ウッドヒル刑務所の刑務所長を襲撃した罪でさらに刑期が2年延びた。ブロンソンはこのような暴力歴のせいで、刑務所の独房でほとんどの時間を過ごしている。
ジョン・マッシー(1975年~)
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殺人の罪で懲役20年の判決だったが、結局イギリスでもっとも長く刑期を務めている服役囚のひとりになった。
1975年、ハックニーパブで喧嘩して追い出された後で、チャーリー・ヒギンスをショットガンで吹き飛ばした罪で初めて服役した。
36歳のマッシーは、警察に発砲して現場から逃走したが、追跡・逮捕された。刑期を終えるまであと2年というとき、シャバでの生活の準備のために自宅に戻っている間に警護の網をくぐって逃亡をはかった。
1994年、マッシーはスペインのコスタ・デル・ソルまで逃げ、そこで再び捕まるまで3年間過ごした。
2007年、仮釈放されてサウス・ロンドンの宿泊所にいるよう厳命されたにもかかわらず、逃げ出してガンで瀕死状態だった父親のジャックのところへ行った。
再び身柄を拘束されたマッシーは、2年半後にフォード・オープン刑務所に送られたが、そこでも何度も脱走をはかった。
のちにペントンヴィル刑務所に収監されたが、2012年にはここでもまた逃亡をはかる。だがその逃亡生活もたったの4日間だけで、また捕まって現在は刑務所の中でおとなしく過ごしている。
ジョン・チャイルズ(1979年~)
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冷酷な殺し屋ジョン・チャイルズは、住居侵入の罪で軍を除隊になった後、1970年代半ばに6件の契約殺人の罪で有罪になった。
彼の犠牲者の中には、10歳の少年テリー・ブレットがいた。父親のジョージがチャイルズに殺されるのを目撃してしまったため、その口封じのために殺されたのだ。
さらに、テレンス・イヴ、ロバート・ブラウン、フレデリック・シャーウッド、ロナルド・アンドリューもチャイルズの犠牲者たちだ。
彼らは銃殺がほとんどだったが、シャーウッドは7000ポンド以上の借金が原因で絞殺された。チャイルズは殺した後、バラバラにしたり、燃やしたりしたため、彼らの遺体は見つかっていない。
1979年に6件の殺人で有罪になってから、チャイルズは共犯者に不利な証言をして、契約殺人の雇い主の名前をはいた。
ピーター・サトクリフ(1981年~)
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ヨークシャー・リッパーとして知られる、この元トラック運転手は、5年間で13人の女性たちを殺した。
現在、70歳。終身刑を宣告されて1981年から服役しているが、体も衰え、刑務所を出ることはないだろうと言われている。
1970年代後半、ヨークシャーで女性が次々と襲われて殺される事件が相次ぎ、町は恐怖のどん底に突き落とされていた。犠牲者はほとんどが売春婦で、しかも遺体が切断されていて、事件が続いたため、イギリス史上最大と言われる捜査が行われた。
サトクリフは、女性たちをナイフやハンマーで襲った。最初の犠牲者は、1975年10月のウィルマ・マッキャンだという。4人の子どもの母親だったマッキャンは、ハンマーで頭を2度殴られ、ナイフで15回も刺されていた。
あまりの残虐性に、ヴィクトリア時代の連続殺人鬼ジャック・ザ・リッパーを思い出させ、ウェストヨークシャー警察が追うこの犯人は、ヨークシャー・リッパーとして知られるようになった。
1976年にふたり、翌年にはさらに3人殺しまくり、サトクリフは警察で数え入れないほどの尋問を受けたが、なぜか釈放された。
19歳の住宅金融組合の職員ジェニファー・ウィテカーや、20歳の学生バーバラ・リーチも犠牲になった。
サトクリフのハンマーとナイフの攻撃から九死に一生を得た女性たちも、その後の人生にトラウマが残った。警察にサトクリフの人相を証言できる女性もいたが、それでも、殺人を止めるのに十分ではなかった。
1981年、サトクリフは警察に車を停められ、偽のナンバープレートをつけた車の中に売春婦がいたため、彼が犯人である疑いが濃くなった。
2日間の尋問の後、サトクリフは自分がリッパーだと自白し、続いての2週間にわたるオールドベイリーでの裁判で、サトクリフは13件の殺人と7件の殺人未遂で有罪になり、1981年5月に終身刑を言い渡された。裁判で"殺せ"という声が聞こえたと証言している。
刑期2年目、サトクリフはほかの囚人から襲撃され、1997年の襲撃のときには片目を失った。精神に異常のある犯罪者用のブロードムア病院に入れられていたが、通常の刑務所に戻された。終身刑の上告は2010年に却下され、サトクリフは最期まで刑務所の中で過ごすことになるだろうと言われている。
デニース・ニルセン(1983年~)
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"親切な殺人者"として知られるこの元警察官は、一見ごく普通の人間に見え、残酷な殺しに味をしめた殺人犯とはとても思えない。
5年以上にわたって、男性ばかり16人を殺した。ほとんどが学生かホームレスで、ロンドン北部の緑の多いムスウェル・ヒルとクリックルウッドにあるニルセンの自宅に連れてきて殺した。
酒や泊まる場所をちらつかせて誘い、紐で犠牲者の首を絞めて意識を失わせ、風呂や水をはったバケツで溺れさせた。
ニルセンにとって、殺しは問題なかったが、遺体の処理が問題だった。そこで、軍隊時代に培った解体技術を使って、遺体を細かく切り刻んだ。のちに警察が語ったところによると、ニルセンは遺体の肉をボイルして、骨だけにしてからゴミとして捨てていたという。遺体の大きな部分は処理が難しかったため、そのままクローゼットや床板の下に押し込んでいた。
あるとき、友人が突然予告なしで訪ねてきたため、ニルセンはトイレにバラバラにした遺体を流した。これが彼の失脚につながった。アパートの配管が詰まってしまったため、配管工が呼ばれて調査が行われたのだ。
配管の中からおぞましいものが見つかったため、警察がニルセンの部屋に踏み込むと、さらに人間の頭部がふたつ見つかった。当時37歳だったニルセンは逮捕され、16件の殺人で起訴された。
ニルセンは1978年にパブで最初の犠牲者スティーヴン・ホームズと出会ったという。14歳のホームズは、ニルセンにクリックルウッドの家に来るよう誘われ、そこで絞殺された。ほかにも、カナダ人旅行者のケネス・オケンデンや、16歳のマーティン・ダフィーも犠牲となった。
逮捕後、ニルセンは殺人の動機を明かしていない。1983年10月の裁判では、ニルセンの魔の手を逃れてなんとか生き残った3人の男性が証言したが、彼は6件の殺人について無罪を主張した。
1983年11月、陪審員はすべての殺人でニルセンを有罪にし、彼は最低でも25年は服役することになった。
1994年、内務大臣のマイケル・ハワードは、終身刑という判決は決して自由になれないという意味だとした。現在71歳のニルセンは、自分は刑務所の中で幸せに死ぬだろうと言っている。via:Britain's longest-serving solitary confinement inmate
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